セクハラ醜聞が暴いた「不健全な取材」の実態

財務省高官のセクハラ醜聞が急展開を見せている。

4月18日夜、福田淳一事務次官は辞任を発表。この場で、4月12日発売の「週刊新潮」に報じられていた女性記者に対するセクハラ発言を強く否定してみせた。ところが、その数時間後にはテレビ朝日が“被害者”は同局の社員だと発表したのだ。

19日午前0時から開かれた記者会見で、テレビ朝日はセクハラを訴えた女性記者がその事実を報道したいと上司に相談したが、2次被害の恐れからそれは難しいと判断。その結果、女性記者が週刊新潮に持ち込んだものだと表明した。

“被害者”が明らかにされたことで、福田次官の「週刊誌に掲載された私の記事は事実と異なる」という主張は通じなくなった。さらにテレビ朝日が社員のセクハラ被害について、適切な措置をとっていなかったことも明らかになった。

女性記者を「くの一」として使っているところも

しかしながらこれでセクハラの全容が明らかにされたわけではない。大手メディアの中には、若い女性記者を「くの一」として使っているところもあり、その点では同じ穴のむじなでもある。

たとえば「週刊文春」(2013年1月24号)は、渡辺喜美・みんなの党代表(当時)が民放の女性記者との関係を妻に疑われ、離婚届けを出されたという内容を報じている。またいまは引退した有力政治家の例だが、女性スキャンダルが多く「無類の女性好き」と知られていたその政治家に対し、大手メディアの妙齢の女性記者がべったりとくっつき、時には顔を近づけて覗き込むように話を聞き出していたことを目撃したことがあった。

自ら積極的に「くの一」を買って出る記者もいないわけではないだろう。だが多くの場合、必ずしも意欲的にそうしたいとは思っていないはずだ。

今回の女性記者の場合も、「週刊新潮」の記事には相手に対する嫌悪感が溢れていた。若い女性ならもっともな反応だ。

ところがこうしたセクハラでは、“加害者”たる本人がそれに気付かない。むしろ「他の人間が同じことをやればセクハラになるだろうが、自分は清潔感があるからセクハラではない」と信じていることが多いようだ。被害者が黙っているのは本人に魅力や清潔感があるからではなく、力関係が大きな理由だという事実に気付いていないのだ。

「福田さんが言えばセクハラには聞こえない」?

もっとも女性側が嫌悪感を抱くか否かは個人差がある。実際に福田次官を取材したことがある某メディアの女性記者は次のように言っていた。

「他の男性が言えばセクハラになる言葉でも、福田さんが言えばセクハラには聞こえない」

しかしこれは、取材先である財務省の高官ゆえにそのようにみえたにすぎないようにも思える。

いまだ男尊女卑の風潮が残る政治の世界だが、果たしてこれを機に変化は見られるのだろうか。取材される側とともに取材する側の大手メディアも、重い課題を投げかけられている。