「やさしさ」が導く“一発レッド社会”

「ほんとはこわい『やさしさ社会』」

「やさしさ」は、日本社会において暴力的な言動を正当化する大義にもなります。ネットで起きる炎上事件も、その根底には渦巻くのが「やさしさ」であるケースは珍しくありません。

たとえばこうしたケースがありました。

瑕疵のある言動をしたAさんに対し、激怒したBさんが本人に直接強い批判を投げつけました。その対立は、Bさんと仲の良いCさんの参戦によって炎が大きくなり、さらにAさんをかねてから敵視する多くの第三者によって炎上状態に突入しました。

その結果、AさんはBさんに対して「死んでお詫びしたい」と述べるほどの謝罪をします。これを聞いて、Bさんや Cさんはもとより大勢のひとびとはさらに激怒し、吊し上げの度合いも進みました。なかには、Aさんを「命を人質にして脅迫するな!」と断じたひとまでいま す。これは、Bさんに対する思いやりの裏返しです。被害者への「やさしさ」が、加害者への無制限の糾弾を正当化しているのです。

あるいは、こうしたケースにおいてBさんを支持しないひとに対し、「怒り悲しんでいるひとの気持ちを考えられな いとは、なにごとだ!」と述べるひとも見かけます。これは、先に挙げた「自分の子どもが殺されても、そんなことが言えるのか!」と似た論法です。「やさし さ」が冷静な判断力を失わせ、想像力を限定しています。糾弾され続けているAさんのことや、自らがAさんの立場に置かれてしまうこと、さらにはそうした状 況を招いてしまう社会について、まったく顧みられていないからです。

森真一『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(2008年/ちくまプリマー新書)
森真一『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(2008年/ちくまプリマー新書)

社 会学者の森真一さんによる『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(2008年)は、タイトル通りまさにこうした日本社会を分析した一冊でした。たとえば上の ケースにおいて、Bさんへの「やさしさ」は、Aさんを批判(攻撃)することによってより正当化されます。森さんが説明するように、これは社会学では典型的 な内集団(仲間/B・Cさんなど)と外集団(仲間以外/Aさん)との関係です(※1)。

内集団には優しいのに、外集団には冷たいことは、日本社会の特徴としてむかしから指摘されてきたことでした。社 会学者・宮台真司さんの「仲間以外はみな風景」とは、この状況を一言で表した言葉です。森真一さんはこの内集団と外集団の格差――「思いやりの落差」が、 「やさしさルール」の厳格化により年々拡大しているのではないか、と論じます。

たとえば、先進国のほとんどで廃止されつつある死刑制度が、日本では存置されているだけでなく80%を超える高い支持をされるのも、「やさしさ」と無関係ではないのでしょう。被害者への「やさしさ」が、加害者に対する死刑(合法的殺人)を正当化しているのです。

チャールズ・チャップリンは、連続殺人犯を描いた1947年の映画『殺人狂時代』の最後で、自身が演ずる主人公にこう言わせて死刑台に向かいました。

「ひとり殺せば悪党で、100万人だと英雄です。数が殺人を神聖にする」

殺人、戦争による大量殺戮、死刑――この3つの「殺人」を相対化したのが、『殺人狂時代』でした。この映画から70年近くが経過しましたが、日本ではこのメッセージがいまだにちゃんと伝わっていないようです。

「やさしさ」を大義とした暴力

“一発レッド社会”も、まさにこの「や さしさルール」によって構築されたものです。個々人の感情が理性よりも優先される社会では、誰かの気持ちを傷つければ、それは強い糾弾対象となります。一 回のケアレスミスが、命取りになるのです。原発管理なみの自己コントロールの檻に誰もが囚われている社会です。

先の例において、Aさんの「死んでお詫びしたい」という謝罪は、(自覚的かどうかはさておき)「やさしさルー ル」が支配する“一発レッド社会”のネタばらしでもありました。B・Cさん、及びそれに追従して糾弾するひとたちがそれによってさらに激怒したのは、“炎 上”行為に加担していることを第三者にわかりやすく開陳させられたからです。

そしてこの衝突は、幸せになった当事者がだれひとりとしていない結果に落ち着きました。Aさんが大きなダメージ を喰らったのはもちろんですが、苛烈な糾弾を繰り広げたB・Cさんとその追従者も、それを見ているサイレントマジョリティからは「面倒くさい集団」として 認識されました。これは野球で言うところの完全な“バカゲーム”となったのです(※2)。

この一件が、生産的な議論として機能することは簡単でした。B・Cさんが冷静な態度でAさんの瑕疵を指摘すれば良かっただけです。さらに感情だけで猛進してくる追従者をたしなめることや、あるいは追従者を生まないように公然の場でやらないという選択もあったでしょう。

Aさんの不用意な言動がすべての発端ではありますが、だからと言って吊るしあげていいわけでもありません。「やさしさ」は、暴力を正当化することはできないのです。

減点法社会に積まれた死屍累々

“一発レッド社会”の真の恐怖は、こう したネット社会を介した“炎上”の積み重ねによって成立しています。そこでは、ちょっとしたミスが命取りになります。ミスによって生じた小さな傷口を、集 団が思いっきり開いて再起不能にするのが“一発レッド社会”です。なかには、意図的にミスを見つけて炎上させる存在もいるでしょう。

こうしたとき炎上に加担するほとんどのひとは、自分たちが被害者になることを想定していません。彼らは、決して 自分がミスをしない自信があるわけでもありません。そもそもミスをしない人間はこの世にいないからです。多くのひとは「やさしさ」を大義に、あるいは鬱憤 晴らしとして炎上に加担します。日々どこかのだれかに向かって、ひとびとはブーメランを投げ放っています。

結果、いま日本の空には、多くのブーメランが飛び交っています。誰が投げたともわからないブーメランが後頭部に 突き刺さることは、誰にとっても起こりうるのです。そこでできることは、とにかくブーメランにぶつからないように匍匐前進すること以外にありません。加点 はできず、減点を回避することこそが最重要課題になっています。

つまり“一発レッド社会”とは、誰かが幸せになれる社会ではありません。誰もが不幸にならないように神経質に なっている社会です。プラスになることは難しく、誰もがマイナスを回避することで精一杯です。そこには、すでに引きずり下ろされたひとびとの死屍累々が折 り重なっています。

そんな“一発レッド社会”でギスギスしているひとたちに対し、「もっとやさしくしよう」と言っても空振りに終わ ります。なぜなら、ここまで見てきたように、「やさしさ」こそがこの絶望的な社会を作ってきたからです。多くのひとは、自分自身の「やさしさ」に過大な自 信を持っています。その「やさしさ」が怖ろしいまでの集団暴力に変転し、自分に突きつけられる可能性があることも知らずに。

誰にとっても危険なこうした社会をどうやって改善すべきか――それは本当に難題です。どんな言葉を投げかけても空振りしますし、逆にその言葉を投げかけたひとが今度は攻撃対象になる可能性もあります。

ただこの記事のような分析こそが、ソリューションの道を拓くのではないかと私は考えています。なぜならここまで 書いてきたことは、“一発レッド社会”のネタばらしだからです。もしかしたらそれは、遠く離れた場所から冷静に状況を分析した態度として忌み嫌われるかも しれません。炎上が蔓延る社会の澱んだ空気をいっさい読んでいないからです。しかし、「やさしさ」を大義に無自覚なまま“一発レッド社会”を推進させるこ とには、やはり参与できません。それは先の例のAさんだけでなく、BさんとCさん、さらにはそれに追従した多くの人々、さらには圧倒的なボリュームのサイ レントマジョリティのためにも。

誰もが幸せになれる社会は、実現することはできないでしょう。しかし、誰もが不幸になることを怯える社会からは、そろそろ違う方向に舵を切ることはできるはずです。個々人が「やさしさ」を濫用さえしなければ――。