メディアを通さなくてもいい――「メディアスキップ」の時代のお仕事

毎年、そして毎日のように、国内・海外の発表会やイベントに出ている。そこで起きたことを記録し、分析し、伝えるのがライターの仕事の一部だからだ。ある意味これは、「メディア」という仕事が定着したこの50年、変わらず続いていることのように思う。

この記事について

この記事は、毎週金曜日に配信されているメールマガジン『小寺・西田の「金曜ランチビュッフェ」』から、一部を転載したものです。今回の記事は2018年11月16日に配信されたものです。メールマガジン購読(月額648円・税込)の申し込みはこちらから。

とはいえ、その辺の状況には、ここ数年、はっきりとした変化が生まれているように思う。特に今年はそのことを強く感じた。

極端にいえば、「過去50年と同じメディアの仕事は、もう役割を終えつつあるのではないか」という疑念だ。

その辺について、ちょっと、筆者が考えていることをまとめておきたいと思う。業種やジャンルによっても違いが大きいので、現状ではある種の「極論」である。そのことをご理解の上、お読みいただきたい。だが、メディア関係者だけでなく、消費者も考えておく必要がある流れだと思っている。

記者よりも「お客様」が優先

「だって、もう“プレス”カンファレンスとは言ってないですからね」

6月にE3を取材した時のことだ。ソニー・インタラクティブ・エンタテインメント ワールドワイドスタジオ・プレジデントの吉田修平氏こと吉Pは、筆者の問いにそう答えた。

photo E3におけるSIEの発表

E3でのSIEのカンファレンスは、プレスにとってはなかなかに難題だった。会場内でゲームのデモが流されるが、その説明はない。ゲームのデモのたびに会場を移動するので面倒。そして、席も広いものではない。

発表が終わると、一般ユーザーよりも一足先にゲームをプレイすることができて、それがなによりの「情報」なのだが、ゲーム専門のメディアでない場合、ちょっと伝えにくいところがあった。

だが、こうした不満は現地に「いない」人には無関係なことだ。SIEはストリーミング配信で様子を、全世界のユーザーに伝えていた。イベント開始前や、記者が会場を移動している間には、MCを立てた独自の実況番組が流れており、そこでのみ公開された情報も多い。すなわち、この「カンファレンス」はあくまでストリーミングを見ているゲーマーが主役であり、現地のプレスは主役でも主体でもないのだ。

こういう話になると、「プレスが主役じゃないといかん、というのか」と感じるかもしれない。いや、筆者が言いたいのはむしろ逆なのだ。

「取材しにくい。ひどい」と不機嫌になる同業者の顔を横目に見ながら、筆者はこう考えていた。

「いや、我々に便宜を図ってもらえないからといって、怒るのは筋違いでは?」と。

企業と消費者の関係を考えれば、「プレスイベント」はあくまで方法論でしかなく、唯一の手法でも最高の手法でもない。プレスとはあくまで「消費者になにかを伝える人々」であって特権階級でもなんでもない。情報が伝わる経路が変わっていくのならば、「こうなるのが必然」なのである。

現在のプレス発表は、インターネットを介してストリーミング配信されるのが当たり前になってきた。そのことは、プレスにとっても消費者にとってもいいことだ。

一方で、そうした場には、いわゆる「記者」「ライター」ではなく、「インフルエンサー」と呼ばれる人々が関わることも増えている。宣伝してもらうために「伝播力」「影響力」のある人々に優先権を与え、伝えてもらうことが増えている。

記者でない、専門教育を受けていない人間が優先なのか、と憤慨する人もいる。まあ、筆者もそういう気持ちを感じる時がないとはいわない。

だが、である。

それもまた「選択」に過ぎないのだ。

企業側の選択として、記者を優先にするよりもインフルエンサーを優先にした方が効果がある、と思うなら、「そうなるだけ」だ。記者だから先に聞ける、先に使えると誰が決めたのだ。お互いにメリットがあってそうなっているだけで、「記者優先」である理由など、本来どこにもないのだ。

「直接」からすべては始まった

今の人々は忙しい。興味のないことまで調べたり読んだりする時間はない……。そう思う人が多いだろう。

一方で、自分が興味を持っているものについては、より速く、より詳しい情報を得られるなら、時間を使う人も増えている。企業やアーティストによるストリーミング配信の増加は、そうした傾向を受けてのものだ。もちろん、コスト的にリーズナブルになった、という点はあるのだが。

メディアを介した伝播は、より広く、多くの人に伝えやすいという特徴がある一方で、本来企業が伝えないものから軸や像がブレる。「直接」届けることは、企業にとっては望ましいことなのだ。

「直接」という言葉で気がついた方もいると思うが、こうしたやり方は、任天堂の故・岩田聡社長が「ニンテンドー・ダイレクト」として始めたものが、業界的にも最初期の存在である。ほかの企業でもやっていたことではあるのだが、プレスカンファレンスに配信を絡め、「一番情報を持っているのはプレスではなく、配信を見ていたファンである」という構造を作り上げたのは、筆者が知る限り、任天堂が初めてだったように思う。2012年E3の、任天堂のプレスカンファレンスがまさにこうした形だったのだ。ちなみにこのカンファレンスは、任天堂として「E3でプレスを招いたイベントとして」開催された、最後のものでもある。

photo 任天堂の岩田聡社長による「社長が訊く」第1回

いまや、テックイベントはもちろん、映画の発表披露なども配信されるようになり、それを「見る」方が、事実をそのまま書くだけなら効率的なものになっている。

メディアに求められるのが「サマリー」ならば、消費者と同じ立場で見聞きして、そこから記事化するのがベスト、ということになる。

「だから、現地に行くよりストリーミングの方が仕事がしやすいんですよ」

そういう同業者がいる。

だが、筆者としては、その声に首を傾げさるを得ない。

我々が書くのは、「サマリー」ではないからだ。

この辺、筆者の記事を読んでお気づきの方は、どのくらいいるだろうか。数年前まで、「発表会詳報」を伝える時、筆者も、発表会で起きたことを、できるだけそのまま伝えるようにしていた。

だが、今はそのやり方は捨てている。発表会のサマリーではなく、その場でなにが起きたのか、それを見たときにどう感じたのか、それが記者の書くことではないか。そう考え、解説のやり方を変えている。

現地に行かなければ、写真やメモの仕事から解放され、ウェブで情報を見ながら分析できるから、というのも、ちょっと違うと思う。「現地にいるから得られる感覚」はやっぱりあって、それは決して無意味なものではない。だから、記者は発表会に足を運ぶのだ。「どっちを選んでもいい」が正解。むしろ、現地に行く人が限られている分、情報としての価値は「行った人」のものの方がレアだ。

「自然な多様的視点」の価値を認めてもらうには

ぶっちゃけ、こうしたことは「メディアとしての基本姿勢」の問題であって、いまさら言うまでもないことでもある。

メディアは信頼ならない、と思われている。それは、自業自得の部分もあるのだろう。

では、ダイレクトだけでいいのか? 視点はそれだけでいいのか?

メディアが信頼されないというのは、多様な視点についての価値を提供することへの疑問があるからだ。別に政治の話だけじゃない。製品がいいのか悪いのか、どこを支持するのか、映画が面白いのか、どこがいいのか。そんなことだって「視点」だ。

こういう話をすると、「企業に阿らず」ということになる。まあそれはその通りなのだ。だが、それは「企業に反する」ことではない。悪い点を指摘し続けることは、結局「悪い点を指摘する」という一つの視点でしかない。

企業やアーティスト、政府からのダイレクトな情報は「ひとつの視点」である。別に彼らが悪意をもってひとつの情報を提供している……と大上段に振りかぶる必要はない。

企業やアーティスト、政府が言いたいことと、メディアとして言いたいことは違う。だから「間に入るとぼやける」のだが、それはあちらの見方だ。発表されたことにどういう意味があって、どういう部分がポイントなのか。それをわかりやすく伝えることこそが、メディアの仕事だ。ダイレクトに伝えたいという企業のあり方を否定してもしょうがない。それは彼らの立場になれば当然のことだ。「ちょっとだけ私の感じたことは違います」ということが伝わればいい。それこそが「多様化」なのだ。

SNSで人々の反応はダイレクトになった。速度も上がった。だからこそ、企業や政府からのダイレクトな反応は、時代の要請なのだと思う。

同時に、「ダイレクトと違うが、この人・このメディアの言うことは面白い」と感じてもらい、「同時に食べてもらう」ことを考えなくてはいけない。

その上で、「メディアを通さなくても情報が伝わる」時代であることを認識し、「伝えることが特権ではない」ことも自認しないといけない。

過去と違い、「読者の中には、自分と同じタイミングで情報を得ている」人が多数いる。一方で、継続的にチェックし、表に出ない情報も確認しているのは、まだ多くはない。

重要なのは、我々が書くことと、企業から直接出てくる情報、そしてプロでない人々が書く情報は「並列に競争している」のであり、過去以上に、「我々は独自の地位にいるわけでないことの自認が必須である」ということだと思っている。

要は「スキップ」されないだけの価値が必要なのだ。そのためには、SNSでの露出も必要だろうし、メディア側での見せ方も重要になる。

メディアの記事や動画には、もはや神通力はない。その上で、あえてメディア経由の情報を読んでもらう、見てもらう価値をどうつけるのか。もっといえば、「ダイレクト以外の経路もいっしょに取り込んだ方が、人生が豊かになる」と思ってもらうにはどうしたらいいのだろうか。

この辺の話は、大上段にかまえたメディア論が通じない部分かと思う。過去のメディアを知る人が多い「今」はいい。では、10年後・20年後はどうか?

多様性の価値を理解してもらうための努力を、メディア側が始めないといけない。思想で戦ったり、販売競争で足を引っ張ったりしている時代でないことを、どれだけのメディア関係者が意識しているのだろうか?

どうにも、大手であればあるほど、そうした空気感、危機感に対して鈍感であるような気がしてしょうがない。