指原莉乃も巻き込まれた「検察庁法改正案」めぐる陣取り合戦

ネット上、とくにSNSでの言説を信じるなら、特定の話題を盛り上げる「工作」は四六時中、行われているらしい。それは本当に行われているのか。いま、SNSではさかんに検察庁法改正法案をめぐって激論が交わされ、その盛り上がりも水を差す行為も「工作」されたものだと主張する人たちによって、炎上のような状態がそこかしこで起きている。ライターの森鷹久氏が、SNSで繰り返される「工作」をめぐる議論についてレポートする。

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 検察庁法改正案を巡り、著名人らが相次いで「抗議の意」を示すハッシュタグ付きの投稿をSNS上にアップしたことが話題となった。その問題がまだ関心を集めるなか、タレントの指原莉乃が、番組内で「自身にもハッシュタグ付きの投稿を促すコメントが来た」と発言し、まともや波乱を呼んでいる。民放局ディレクターが明かす。

「ネット上では、やはりあの投稿騒動は左翼勢力が組織的にやっていたものだ、とか、(依頼を暴露した)指原さんが以前、番組出演者らと一緒に安倍総理と会食をしていた事実をとりあげ、官邸に近しく、安倍首相の手先ではないかといった憶測が流れています。ただ、指原さん自身に、いわゆるステマ(ステルスマーケティング)のような依頼が来たことは一切なく、SNS上の数名のユーザーから、そういう風に勧められた、というだけなのです」(民放局ディレクター)

 色々と「話題に」なっている検察庁法改正案を巡る騒動で、賛成派と反対派に二分化したネットユーザーたちは、ネット上でお互いのあら探しをしている。その活動のひとつとして特に芸能著名人たちの姿勢を監視し、それぞれが自説を補強するためのコマに用いようと、芸能著名人をお互いの陣地に引っ張りあっているのだ。指原は、その両陣営の綱引き=陣取り合戦に巻き込まれた形になった。

 最近の我が国においては、ネット上で政治姿勢を少しでも明らかにすると、思わぬところから矢が飛んでくるのが当たり前になってしまった。今回の騒動でも、とある男性タレント・K氏(20代)が、同じような目にあったと訴える。

「私のところにも、指原さんに来たようなコメントが寄せられました。よくわからない話なので、政府は国民の意見を聞いてほしい、と返したところ、反日タレント、などと別の人から投稿が来ました。怖かったので投稿を消すと、今度は最初にコメントをくれた人が、なぜ投稿を消したのか、安倍政権の肩を持つのかと、脅しのような投稿が寄せられました」(タレントK氏)

「芸能人が政治的な立場を表明するのは外国では常識」などと巷間で言われることもあるが、我が国においては、このように誰も納得しないし不快になるだけ、さらには誰かの攻撃対象になってしまうというのが実態だ。どちらかの意見に賛同すれば、もっと踏み込んでいえば「寄ったと見做された」だけでも、もう片方から激烈な罵倒を受ける。それでは「どちらでもない」という態度を示すと、今度は両方から「何も考えていない」などと叩かれる。

 こうして「左右標榜」の上で、ネット上で意見の異なる人を攻撃しまくる人々は、一見すると特定の集団にも見える。特に、自民党や共産党の支持者はそれぞれ、ネット上の意見表明、その結果起きるハッシュタグを用いたムーブメントを、幹部と思しき人たちの決定で組織的に行っているという見方が根強くある。さらに、そうした仕事を「外注させている」などと、事あるごとに囁かれている。だが、どの推察もすべて的外れだ。

「一部の党に、そういう人たちがいるのは本当ですが、彼らがネット上の何千、何万という意見を機械的に作り出したり、世論操作に影響を及ぼしているかといえば、そうではありません。意見の異なる互いの人々についての、『そうに違いない』と思い込みから発せられるものでしょう」

 こう解説するのは、全国紙野党担当記者。実際に海外では、英国のEU離脱や米大統領選に関与したケンブリッジアナリティカ事件など、特定勢力からの依頼によるネット工作の実態も明るみになっている。だがそれらは多額の費用が投じられたビジネスであり、さらに心理学を応用した巧妙なもので、工作によって自分や友人の意見が変更させられたことに気づけないようなものだった。一方、我が国では、前述の事件のようなネット上の「工作」は現状確認されていないという。検察庁法を巡る騒動でも、反対派の意見と、賛成派……というより「反対派に反対する」という意見は、結局拮抗しているようにも見えた。世論は完全に二つに分かれたようにも見えたが……。

「多くの新聞、テレビニュースがSNS上で何百万件投稿された、という形で報じていましたが、これは極めて危険です。そもそもSNSの運営会社が、トータルで何件のツイートがあった、とは公式に発表しておらず、取材しても出してはくれていません。これは何か意図があってというよりは、システム的に出せないようなのです。ただ、非公式には、一つのアカウントが何件も同じ投稿をやっていた事例はあると認めています。要は、意見や声の数は、作ることができるのです。支持する意見が異なるユーザーたちをみると、どちらにも同じような傾向があります。一部の人たちが何件も同じようなツイートを連発し、意見の異なる人たちを攻撃しまくっている」(全国紙野党担当記者)

 こうした攻撃的な人々ほど「政治的な立場をはっきりと示せ」と他人に強要し、その上で「日本は諸外国に比べて遅れている」などと悲壮感たっぷりに言って見せているのは、皮肉なことだ。自分と異なる信条だとわかると攻撃する彼らの言動そのものが周囲を威嚇するため、政治について思うところがあっても、皆の口を閉ざさせているからだ。なにより、政治的な意見が画一的であるはずはない、それぞれ生き方も考え方も違うのだ。その多様性を認めない世界を彼らは求めているのか?

 本来、政治的にどんなものを支持するかという行為の先には、自身や家族、地域や社会の幸せを達成したいという純粋な願いがあるはず。様々な意見がある中で、国民、市民の幸福最大化に努めるのが民主主義政治の目的であって、民主主義に必要不可欠なのが、私たちの声、投票に他ならない。

 今起きていることはといえば、ただ平民同士での揚げ足取りに終始し、互いの声を声とも認めずに罵声の応酬に労力を割くばかり。そもそも何が問題で、何のために議論していたのか、いつの間にか忘れてしまうようなことすら起きている。結果、政治が悪いマスコミが悪いと責任転嫁して、また次に炎上しそうなネタに、条件反射的に飛びつく人たちが、世論と言われるものを形成していく。悶着に疲弊した人々は、ますます政治らしきものから距離を置く。そうした意味で、我が国は諸外国に比べ本当に遅れているし、劣っている。為政者にとっては、国民の「政治への無関心」以上に心地よい状況であるのかもしれない。