コロナよりも恐ろしく私たちが回避すべきもの 魔女狩りや全体主義を蔓延させてはならない

緊急事態宣言がようやく全国的に解除となった。こうした中、気になるのはコロナ禍を恐れるあまり、政府方針に従わない人を誹謗し中傷する「自粛警察」が跋扈するなど、正常な人間同士の社会的関係が失われていることだ。

こうした自粛警察が跋扈する理由は、日本国民の多くが新型コロナウイルスへの恐怖感を募らせているからだろう。

日本は新型コロナにかかわる人口対比の死者数がアメリカや欧州諸国に比べて圧倒的に少ない。ところがこの間、ネット上には「ロックダウンをしていない日本は危ない」「PCR検査が不十分な日本はもう終わった」などという記事があふれた。日本よりもずっと人口対比の死者数を多く出している国の対策と比較して「日本はダメだ」という記事のオンパレードだ。

最近のメディアと読者、国家との関係には危ういものを感じる。国に対してコロナ対策が緩すぎるとして、ロックダウンを求めたり、PCR検査を国民全員に行って陽性者の「隔離」をせよと提案したり、国民を監視する海外の政策を推奨したりすることだ。

権力の乱用を防ぐための政府批判はもちろん活発に行うべきだ。たとえば、税金の無駄遣いと思えるアベノマスク、政権寄りの検察官の定年延長を可能にする検察庁法改正案への批判などだ。しかし、政府に対し極端な私権制限を要請するメディアや一部の学者たちと、それに同調する人々の動きには賛成できず、危険なことだと考えている。

■国家総動員法と同じ論理

重要なのは患者の治療であるのに、なぜか検査が国民の一大テーマになってしまったのは、テレビの影響力が大きいようだ。コメンテーターがコロナ危機を戦争に例えて、旧日本軍と同様に負けるなどと叫んでいるが、こうした煽動こそ危険だ。太平洋戦争前夜にマスコミが積極的に国民の不安と不満を醸成していった状況に似ている。

「マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威を持ちはじめ、不動のもののように人々を引っ張ってゆき、流してきました」(半藤一利著『昭和史』平凡社)。

煽動の甲斐あってか、一部の経済学者たちが国民全員を対象に新型コロナに感染しているかどうかのPCR検査を行って、「陽性であれば隔離・治療へ」「継続的な陰性は社会活動・経済活動へ」との提言を出している。内容を読むと、個人の意思や選択権などないか、あっても簡単に従わせることができるという傲慢な前提が置かれている。国家規模のGDP(国内総生産)の維持が重視され、国家経済のために「国家総動員法」と同じ発想で出している提案なのだ。

「隔離」は私権制限の最たるものだ。日本でも結核患者やハンセン病患者に対する国家の強制隔離が基本的人権を侵害してきたことは恥ずべき歴史の一部だ。そうした歴史への配慮もない提案は驚きである。

新型コロナは未知のウイルスであり、その性質などは現在解明が進められている。そのため、「専門家」とされる人々の間でもその説明や対策などで意見が一致しない。日本がなぜ感染者を抑え込めているのかもはっきりしないのは確かだ。明らかなデマやフェイクニュースは論外だが、厚生労働省の発表やNHKの報道であっても、事後的に正しかったといえるかどうかはわからない。

こうしたもどかしい状況下では、メディアの報道も勢い大げさなものになりがちだ。そして、メディアが新型コロナの脅威を報道すればするほど人々の恐れも必要以上に拡大していく。そうした中で、人々は政府に対し魔法の杖のようにコロナの感染拡大を止めてくれる手段を望んでしまう。しかし、魔法の杖はなく、極端な解決策ほど大きな副作用や大きな落とし穴が待ち受けているものだ。

■管理国家への誘惑を断ち切る必要

「9.11」後のアメリカで、人々の監視を強化する米国愛国者法の成立や対イラク戦争に国民を駆り立てていったものとして、マイケル・ムーア氏の映画『華氏911』ではメディアによる「恐怖と消費の大宣伝」の存在が指摘されている。コロナ危機でもそうした動機の存在を注意深く疑ったほうがいい。

韓国や中国など海外で実施されている厳格な新型コロナ感染症対策の裏側では、個人の自由やプライバシーが侵害されていることも冷静に考えるべきだ。私たちは本当にかの国のような管理国家を望むのか。いわゆる「自粛警察」がはびこる今の日本にそうした予兆を感じないだろうか。

すでに、新型コロナで家族を亡くした人がそのことを親しい友人にも言えないという不自由な国になってしまっている。普通の葬儀も出せない状況だ(参考記事『新型コロナでも「普通の葬儀ができるはずだ」』)。また、感染者が家族にいるということも、子どものいじめなどを恐れて友人に相談できないのだという。そうした怖い状況の中から、「陽性者は隔離」という発想は出てきた。

新型コロナを恐れるあまり魔女狩りや全体主義をはびこらせてはならない。日本のように同調圧力の強い社会では、そうしたことが自殺に結び付きやすい。新型コロナによる死者は少ないが、新型コロナにまつわるいじめで自殺者が増えた、というようなことになりかねない。

■自由な議論に基づく寛容な社会の維持を

あえていうが、安倍政権に強力なリーダーシップなど求めない。求めるのは情報開示である。新型コロナウイルス感染症専門家会議のどのような議論を経て対策が決められたのか、開示が不十分な点は気になる。一方で、専門家会議が「新しい生活様式」といった大仰な言葉で、日常生活の各場面に及ぶ指導を列挙するのは行きすぎだ。

専門家会議の議事録をどんどん公開し、それを受けて、個々人が必要だと思う感染防止策を実施し、経済活動の再開の仕方を工夫していくというのが民主主義下のコロナ対策の望ましい姿である。

そして、ほかの人の判断の自由も尊重するべきだ。「自粛警察のターゲットにならないように注意しよう」というアドバイスも散見されるが、それは本来順序が逆だ。意見の異なる人への嫌がらせやいじめは、それをする人のほうが戒められるべきだ。

※5月25日発売の週刊東洋経済のコラムに加筆しました