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なぜ日本の郊外には「タダ同然の住宅地」が大量にあるのか…「限界分譲地」という大問題を告発する

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日本の郊外には「タダ同然の住宅地」が大量にある。そうした「限界分譲地」の取材を続けているブロガーの吉川祐介さんは「限界分譲地は戦後の土地開発ブームに乗じて作られた。居住ではなく投機が目的だったため、放棄された空き地が虫食い上に広がっている。限界分譲地に住むことは可能だが、自治会は機能せず、道路や公園は雑草で埋もれることもある」という――。

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■日本に点在する、忘れ去られた分譲地

戦後の日本は近年に至るまで、深刻な住宅問題を長く抱えてきた。

終戦直後は、空襲で家を失った人や復員兵や引き揚げ者の住宅の確保。人口増と高度成長がもたらした都市の過密と住宅不足、そして住環境の悪化という問題があった。

過熱する土地開発ブームによる地価の高騰などもあり、どの時代においても庶民は、激変する社会情勢の中で、ひとつのマイホームを確保するのが精いっぱいの状況だった。

地価高騰の時代と聞くと、1980年代末ごろのバブル経済期を連想しがちだ。しかし首都圏では、60年代後半ごろの時点ですでに、都心部とその周辺エリアの地価は、一般の給与所得者の収入では到底手が出せる価格帯ではなくなっていた。

都心部ではすでに民間の分譲マンションの建設・販売も進んでいたものの、国内全体としては、まだ大型の集合住宅も少なかった時代である。

宅地開発がピークに達した70年代初頭の一般の庶民向けの住宅分譲地は、都心から電車で1時間半~2時間以上もかかる郊外部に開発されるのが通例であった。煤煙と土壌汚染に悩まされた時代には、郊外住宅地は住環境の面において魅力があった。

現代では東京都内の住環境は劇的に改善し、かつて町工場がひしめいていた23区東部の下町エリアも人気のベッドタウンへと変貌した。

すでに時代は人口減の段階に突入している。交通不便な立地のベッドタウンは訴求力も低下し、地価も下落の一途をたどっている。高度成長期の郊外住宅地の住民は高齢化し、若年層の流入は進まず、過去の「ニュータウン」が「オールドタウン」となった。

ときに「限界ニュータウン」と称呼され、その問題が取り沙汰される機会も多くなってきた。だが、そのさらに外側にも忘れ去られた分譲地が点在している。これが本稿のテーマだ。

■乱開発の証、「限界分譲地」とは何か

郊外型ニュータウンのさらに外側。1970年代の時点でもベッドタウンに適していたとは思えないような交通不便な農村エリアに、小規模な住宅分譲地が乱開発された。

今も多くが放置されている問題は、これまであまり大きく取り上げられてこなかったように思う。特に現在筆者が在住する千葉県の北東部エリアは、およそ計画性のかけらもない、おびただしい数のミニ分譲地が散在している地域である。

筆者は自分のブログ上で「限界分譲地」と呼称してきた。これらのミニ分譲地は、今となっては住宅地としての再利用も困難なほど荒廃しているところも少なくない。

限界分譲地が抱える問題は、人口が減少して高齢化が進んでいるから衰退している、というような単純な話ではない(もちろん遠因の一つではあるが)。その多くは実際に人が住むことを十分に想定しないまま、ただ増大する土地需要に応える形で無秩序に増殖した。

これが今日の衰退・荒廃の最大の要因である。

■畑に“ポツンと分譲地”が作られたワケ

図版1は、1972年7月13日付の読売新聞に掲載された「千葉 第2洋光台分譲地」(千葉県旧印旛郡富里村、現・富里市)の住宅分譲地の広告である。右側には、同じく当時ピークを迎えていた、同一の会社による群馬県の分譲別荘地の広告も見える。

【図版1】1972年7月13日付読売新聞に掲載されていた、現在の千葉県富里市に残る投機型分譲地の広告(左)。 – 筆者提供

全面広告で、当時の一般的な不動産の新聞紙面広告と比較しても大きい。この物件は、70年代の千葉県北東部で典型的に見られたミニ開発の分譲地である。

一見すればごく普通の不動産広告だが、よく読むと、今日の感覚では少々奇妙な印象を受ける。

分譲価格や資金計画における優位性を謳う一方で、住宅地の情報として本来必須であるはずの、周辺環境や近隣施設への言及がまったくない。住宅建築に関する提案もなく、ただ土地の分譲のみに特化し、生活感に欠けている。

実際、この分譲地は最寄り駅である総武本線八街駅からも決して近くなく、分譲地の周辺は今も広大な農地が残された畑作地帯だ。

生活利便施設に乏しい農村エリアなので、利便性の面で大きく宣伝できる要素があまりないのも事実だ。だがこの分譲地は、建前では住宅用地を謳っているものの、現実には売り手も買い手も直ちに住宅地として利用することを想定していない。

地価の値上がりを見込んだ財形貯蓄の手段としての、いわば投機商品だったのである。

■人々が土地を買い漁った

開発ブームに沸いた高度成長期は、所有地を住宅団地やゴルフ場、レジャー施設などの開発用地として売却し、大金を手にする地主が続出した。

土地需要が高まり地価は上昇を続けた。多くの人が「土地所有こそが資産形成の最も堅実な手段」であると信じていた時代である。

そのため使う予定がなくても、人々は現金を土地に替えた。投機熱は住宅用地に及び、ついには投機目的に特化した分譲地まで登場する始末となった。

1970年代は、北海道などの僻地にある無価値な原野や山林を、あたかも資産価値の高い不動産であるかのように騙って分譲する「原野商法」が大きな社会問題になった。原野商法の土地も、まさに紛れもない投機型分譲地の一種であった。

前述の富里市の分譲地は今日でも住宅用地として利用されている。周辺は都市化とは無縁であり、分譲当時と大差はないであろう農村風景が今も残されたままだ。

広告に記載されている八街駅からのバス路線は廃止されて久しい。民間バス撤退後に走っていた市営のコミュニティーバスすらも廃止された交通空白地帯の中にある。

■空き地は「売れ残り」ではない

分譲地に一歩足を踏み入れて、最初に目につくのは空き地の多さだ。

季節は夏なので、どの空き地も猛烈に雑草が繁茂しているが、これは家屋が取り壊されて更地にしてあるのではない。大部分が分譲当初から今日まで一度も家屋が建てられることもなかった空き区画である。

この光景を見ると、立地が不便だから分譲はしたものの販売が振るわず、空き地のまま売れ残っているのだと考える方がいるかもしれないが、それは大きな誤解である。

この富里市の分譲地に限らず、この時代に販売された分譲地は、いったんは完売しているのが常である。よほど特殊な事情でもない限り完売する。北海道の原野であろうとも。

各エンドユーザーの手に渡った区画が、その後の土地ブームの収束と地価下落で流動性を失った。家屋は建たず、活用されずに放置されているのだ。

空き区画には、小さな看板が立てられているところもある。「○○様所有地」と、所有者の姓と会社名が記載されている。

これは、遠方に住む土地所有者から委託を受けて、定期的に土地の草刈り・清掃業務を請け負う地元の管理会社のものだ。管理会社にはその土地の仲介業務も兼務するところもある。

先に紹介した新聞広告をもう一度見てみよう。見学バスの集合場所に総武線の西船橋駅が指定されている。こうした投機型分譲地の購入者は、ごくわずかな居住目的の住民を除き、その多くが東京や神奈川、埼玉などの関東全域の都市部在住者であった。

自分で足を運んで草を刈るのは負担が重すぎるということで、地元の管理会社に委託して土地の管理を長年続けている。

■売りたくても、売れない

使いもしない土地の維持管理を続けるのか。無用ではないだろうか。草も刈らずに放置すると、近隣住民からのクレームがあったり、ときに不法投棄者のターゲットにされたりするリスクもある。

土地をうかつに放置できず、売れる見込みもないまま管理料を負担し続けているのが実情なのだ。

物件広告を見ると、千葉県北東部では今なお、膨大な数に及ぶ未利用分譲地の売地情報が掲載されている。しかし売り出し価格は実勢相場よりも高額で、数年にわたって買い手も付かず掲載され続けている物件も少なくない。

たしかに分譲当初の販売価格と比べれば安価だ。所有者としては精いっぱいの妥協をしているつもりなのであろう。だが今では、交通不便な僻地の旧分譲地。地元の相場観ではあまりに非現実的な価格である。

この分譲地のある区画には、すでにその看板は撤去されてしまったが、以前は所有者の自作と思われる売地の看板が立てられていた。

そこに記載された価格は44坪で20万円。広告記載の分譲価格は大卒初任給が5万円程度だった1972年当時で約200万円なので、額面だけでも10分の1まで下がっている。貨幣価値の違いを考えれば、それ以上の暴落と言っていい。

■朽ち果てた空き家、火事になっても放置…

分譲地内には空き家が目立つ。

このエリアでは中古住宅の需要は旺盛なのだが、あまりに交通が不便なためなのか、高齢となった所有者が介護施設に入所したり、入院したりして使われなくなったのだろう。かといって売りに出されずに放置されている空き家もある。

問題はこうした空き家が放置され続け、取り壊すしかないほど朽ち果てた場合である。

この分譲地には1カ所、火災で半焼し、残骸が撤去されず放置されている家屋跡がある。千葉県北東部の限界分譲地では、半焼家屋すらも放置されるのが常である。

わざわざ費用を投じて解体・撤去しても再利用や売却が見込めない。また土地の実勢相場が、家屋の解体に要する費用をはるかに下回っていて元が取れないことが原因だ。通常の劣化による廃屋も同様だ。

こうした分譲地から住民がすべて離れ、住宅地が消滅するのならむしろ話は簡単だ。

しかし限界分譲地は、その語源となった限界集落とは異なり、安直に自然消滅を期待できるほど市街地からは離れていない微妙な立地にあるものが多い。

更地の多くは流動性が失われているとはいえ、中古住宅の流通は活発だ。更地でも、坪1万円を下回る実勢相場に近くなれば買い手が付く場合もある。地域の衰退が続いてもなお、物件の流通が続く理由は簡単だ。物件価格が安いからである。

■「限界分譲地」の独特な問題

良くも悪くも住民同士の関係が濃厚な農山村部の限界集落は、住民の多くが数世代にわたってその地に暮らし続け、個人ではなく、地域社会でその住環境の維持を続けてきた。

住民の流出が進めば地域の生活基盤や文化も衰退し、居住地としての拠点性も急速に失われてしまう。市街地からあまりに遠い山村には、ベッドタウンとしての需要もない。

ところが限界分譲地は開発当初から、そこに住むつもりもなかった遠方在住の投資家が購入し、今も区画ごとに所有者がバラバラの状態が続いている。わずかに住宅の建築は進んだものの、農村の古民家と違って、多くの分譲地の住戸は、親子2世代が共に暮らせるほどの設備や広さを備えていない。

すでに当初の購入者の手を離れ、新しい住民が暮らしていたり、賃貸物件として再利用されていたりする住戸も多い。後者の場合、賃貸オーナーは更地の区画同様、遠方在住の投資家であることがほとんどだ。

■最初から住居、空き地、空き家が共存する異様

一方で空き地は、いまだ買い手もつくこともなく、一部では管理すら放棄されている。

所有者の属性だけでなく、思惑やビジョンもバラバラで、なんの統一性もない。空き地や空き家があっても、近隣住民には、その所有者の素性もわからない。

そのため小規模な限界分譲地は、住民や区画所有者の総意を取りまとめることができず、地域社会や地元自治体への発言力もない。

今や地方都市では自家用車さえあれば、限界分譲地であろうと、ベッドタウンとして利用に耐えうる程度の利便性は残されているので、どんなに近隣の未管理区画が荒れ果てても、別の区画の空き地や住戸はお構いなしに、今なお廉価な物件として市場に流通し続ける。

住民の離脱が続くだけであれば、それは「衰退」であって、話は単純だ。しかし、現在の限界分譲地で起きている事態は、単なる衰退ではなく、無秩序な放棄と再利用が混在した「都市の荒廃」である。

時代は人口減少期に差し掛かり、地方都市の多くは、行政サービスや交通機関などの生活インフラの集約化・効率化が課題となっている。ところが限界分譲地を多く抱えた自治体は、現状ではそのスタートラインに立つことすらもできていないのだ。

■「限界分譲地」が問いかけるもの

分譲地内には車両置場として利用されている区画があった。今回、当記事執筆のために数年ぶりに確認してみると、無造作に置かれた車両は撤去され、代わりに立派な倉庫が建っていた。

住環境を考えれば歓迎すべき変化だが、そもそも実需を全く考慮されないまま乱開発された旧分譲地を、今後も虫食い状に再利用を続けていくことが、都市計画や住宅政策の視点から見て最適解と言えるのだろうか――。

筆者自身、乱開発の産物である千葉県内の僻地の分譲地で暮らしており、管理者を失った自宅周辺の空き地の整備を続けている。だからこそ、その思いを拭えずにいる。

ある区画は流動性を失うほどまで荒廃・放棄される一方で、真隣の区画は宅地として利用され、住民が生活をしている。限界分譲地に住むことは可能だが、自治会は機能せず、道路や公園は雑草で埋もれることもよくある。

郊外の衰退・縮小とはよく言うが、現実にはきれいに整然と縮小しているのではなく、虫食い上に放棄された管理不全の住宅地の割合が、静かに拡大しているのだ。

場当たり的な住宅政策の無策ぶり、地価の下落による資産価値の消失、住環境の荒廃……。限界分譲地の問題は、都市問題の負の側面をもっともわかりやすい形で地域社会に突きつけている。(続く)

吉川 祐介(よしかわ・ゆうすけ)
ブロガー
1981年静岡市生まれ。千葉県横芝光町在住。「URBANSPRAWL -限界ニュータウン探訪記-」管理人。「楽待不動産投資新聞」にコラムを連載中。8月に初の著書『限界ニュータウン(仮) 荒廃する超郊外分譲地』(太郎次郎社エディタス)を出版予定。