熱中症の被害者が出ても、夏の甲子園が絶対になくならない事情

全国で多発する熱中症被害を受けて、「涼しい秋の開催にしたほうがいいのでは」「ドーム球場の開催を検討すべき」などと「夏の甲子園」に異論を唱える方たちが続発しているのだ。

「バカ言うな! 暑いなかでやるから甲子園なんだ」「100年も続く“聖地”をそう簡単に動かせるか」と怒りで発狂する方もいらっしゃるかもしれないが、そこは安心していただきたい。

いまの日本社会の状況を冷静かつ客観的に振り返れば、「夏の甲子園」がなくなることなどまずありえないからだ。

いま高野連が盛んに触れ回っている水分・塩分補給などの熱中症対策は文字通り「焼け石に水」なので、今後も熱中症の悲劇は繰り返されるだろう。だが、どんなに犠牲者が出て最悪、死者が出るようなことになったとしても、なんやかんやと理由をつけて「夏の甲子園」の続行はかたい。その理由として、以下の3つがあるのではないかと考えている。

(1)「甲子園ムラ」の強い抵抗

(2)ジャーナリズムの忖度(そんたく)

(3)「運動部しごき自慢おじさん」が組織の要職に就いている

なんとなく分かるというものから、なんのこっちゃというものまでもあると思うので、(1)から説明していこう。東京五輪は海外メディアから「殺人オリンピック」なんて揶揄(やゆ)されているが、開催時期を変えることができない。莫大な「放映権料」が発生しているからだ。

この構図は、「夏の甲子園」にもまんまあてはまる。

●「甲子園利権」を堅守しようという力学

主催社の朝日新聞社、生中継するNHKをはじめ多くのメディアにとって「夏の甲子園」は単なる高校生の野球大会ではない。オリンピック同様に「感動のドラマ」でカネを生み出す巨大利権なのだ。ゆえに、そのドラマの価値を下げるような開催時期や舞台設定の変更は断じて認められないのである。

こういう「甲子園利権」を堅守しようという力学は、プロ野球や高校の側にも見てとれる。これまでのプロ野球のスターたちを見れば一目超然だが、甲子園は球界の「スター誕生」的な機能を長く担ってきた。この舞台で全国的な注目を浴びて、「伝説」をつくった少年は、ドラフトの目玉となり、入団したチームの入場客数やグッズ販売にも大きな影響を与えてきたのだ。

「夏の高校野球」はなくならない(写真提供:ゲッティイメージズ) © ITmedia ビジネスオンライン 「夏の高校野球」はなくならない(写真提供:ゲッティイメージズ)

この“甲子園依存”は、少子化に悩む高校もまったく同じだ。大阪桐蔭のような私立高校にとって、「甲子園出場」や「スター選手の母校」という実績が、入学希望者を増やすブランディングになることは言うまでない。

このような「甲子園ムラ」ともいうべき既得権益集団からすれば、球児や観客がバタバタ倒れたくらいで、開催時期や場所を変更するなどありえないのである。

政・官・民にわたって膨大な人々が食い扶持としている原発という巨大利権が、史上最悪の事故を起こしたにもかかわらずストップできないのと同じ構図だ。

バカバカしいと思うかもしれないが、(2)の「ジャーナリズムの忖度」がその動かぬ証拠である。

●「甲子園タブー」が存在する

「原発タブー」なんて言葉が世に広まったことからも分かるように、この国のマスコミが広告や情報源である官庁への忖度など、さまざまなオトナの事情から、「原発」というものに対して、極めて偏った情報を流していた事実があったことは今さら説明の必要はないだろう。

実はこれとまったく同じ構造の「甲子園タブー」というものが存在する。分かりやすいのが、西東京大会決勝で154球を投げた日大鶴ケ丘の投手が試合後、脱水症状を伴う熱中症を発症して救急搬送された「事件」だ。

報道によれば、この投手は3回戦も熱中症で途中降板し、決勝戦では全身の痛みを訴え、歩行も困難になったという。

まともな常識をもつ人間ならば、「いやあ、高校野球って本当にいいものですね」で片付けるような事件ではない。当然、複数のメディアがこれを取り上げたが、いつもなら真っ先に大騒ぎしそうな人たちがだんまりを決め込んだ。

『朝日新聞』である。

先ほども触れたように、この大新聞社は「夏の甲子園」の主催社であり、あの手この手でイベントを盛り上げていく立場。なにをかいわんや、である。

しかも、もっと言ってしまえば、このように「報道しない自由」を行使するのはまだマシなほうで、明らかに「ある方向」へと読者を誘導させようという作為に満ちた、我々の世界で言う「向けた記事」も散見される。

例えば、7月22日、新潟の私立加茂暁星高校が地方予選準決勝で敗れたことを、「練習直後に倒れ…亡き女子マネジャーへ、捧げる2本塁打」(朝日新聞デジタル 2018年7月22日)なんて感動秘話っぽく報道したが、実はこの女子マネージャーは、「練習後に約3.5キロ離れた学校に戻るため、選手とともにランニングをさせられて倒れた」のである。

しかも、遺族によると、倒れたときに心室細動を発症していたが、野球部の監督は「呼吸は弱いけれどある」(朝日新聞デジタル 2017年7月25日)とAEDを使わず、救急車が来るのを待っていたという。数日後、女子マネージャーは低酸素脳症で亡くなった。

本来、この女生徒に捧げなくてはいけないのは「2塁打」などではなく、なぜ子どもの命を育むはずの学校で、このような事態が起きたのかという原因究明と、「科学的指導とかけ離れた根性論」が横行して、毎年のように死者を出す野球部をどう変えていくのかという改善策であるはずなのに、かなり強引な力技で、「感動ドラマ」へすり替えているのだ。

●騒いでもらいたくない「不都合な真実」

こういう傾向はなにも『朝日新聞』だけではない。甲子園の「感動ドラマ」を売りにしているすべてのメディアにとって、「1975年から2011年の37年間で部活動の死亡事故は139件あって、そこで最も子どもが死んでいるのが野球部」というのは、あまり騒いでもらいたくない「不都合な真実」なのだ。

記者クラブ、放送法改正、放送アーカイブ、消費税軽減税率、そして過去の原発報道を見れば分かるように、マスコミは自分たちに都合の悪い話を打ち消すとき、「恐怖訴求」を好んで用いる。

例えば、記者クラブ問題や放送法改正では、「報道の自由がなくなって戦時中に逆戻りだ」なんて恐怖を触れ回って、国民の目をそらすことで「特権」を死守している。

そういう過去のやり口を参考にすれば、もしも甲子園で球児や観客が熱中症でバタバタ倒れても、「夏の甲子園をやめたらプロ野球が弱体化する!」「炎天下で練習しないと日本の野球のレベルが落ちる!」などあの手この手のキャンペーンで火消しをする可能性は高い。

最悪、死人が出ても先ほどの女子マネージャーのように、「美談」にすり替えたり、「今回、亡くなった子どもはたまたま水分補給してなかった」という不測の事態として扱ったりして、「さらなる対策が必要だ」みたいな“問題先送り型報道”が行われるはずだ。

ただ、このようなマスコミの世論誘導以上に、「夏の甲子園」への批判をはねのけてくれる人々がいる。それが3つ目の「運動部しごき自慢おじさん」だ。

いったいなんのことやらと思う方たちのために説明しよう。みなさんの周りにも、ひとりやふたりいないだろうか。学生時代に運動部に所属していたときの、筆舌に尽くしがたい壮絶な「シゴキ」をうれしそうに語っているおじさんが。

「練習中はバテるからと水も飲ませてもらえなかった」

「罰として、炎天下の中でグラウンドを何十周も走らされて気を失った」

「今なら大問題だけど、当時はよく監督からボコられた」

だが、よほど心の傷なのかと思いきや、この手のおじさんたちは決まって、壮絶な被害体験を述べた後にこのような言葉で締めくくる。

「当時は先輩を殺してやると思ったけど、今となってはいい思い出だよ」

「でも、あの辛さを経験したおかげで、今はなんでも乗り越えられる」

つまり、運動部の理不尽な「シゴキ」を「必要悪」として前向きにとらえるおじさんのことだ。確かにそういうおじさんいるけど、それがなんで「夏の甲子園」がなくならない理由なのだと思うかもしれないが、「児童虐待」が起こる構図をイメージしていただければ分かりやすい。

親に虐待された子どもは、大人になると同じように子供を虐待する事例がいくつも報告されているように、人は自分がやられた「ハラスメント」を、知らぬうちに他人に行ってしまう。

●「シゴキ=必要悪」という誤った認識

これが大企業にパワハラが発生するメカニズムだ。例えば、電通の新人女性社員が過労自殺に追い込まれた事件があったが、彼女の上司たちは決して「いじめてやろう」などと思っていなかったはずだ。かつて自分たちが上司から言われたこと、強いられたことを「再現」したに過ぎないのである。

なぜそんなバカなことをするのかというと、「運動部しごき自慢おじさん」だからだ。中高の運動部、大学の体育会を経て社会人になった一部の大人たちの頭というのは、本人もなかなか気付いていないが、「シゴキ=必要悪」という思想にとらわれてしまっているのだ。

「あの辛い日々があったから、今のオレがある。こいつも自分のように困難を乗り越えて、大きく成長してほしい」

そんな歪(ひず)んだ親心から、自分がかつて受けた壮絶なパワハラを後輩や部下に対しても忠実に「再現」してしまう。かつて虐待を受けた子どもが親になって、我が子に暴力を振るうように。

この企業内の「ハラスメントの無限ループ」の構造とまったく同じことをやっている世界がもうひとつある。そう、「夏の甲子園」を頂点とする「高校野球」である。

理不尽なシゴキを受けた子どもが大人になって、監督やコーチになれば当然、親心から自分が受けてきたハラスメントを子どもたちに「再現」する。子どもたちも、大人たちからこの過酷なハラスメントを乗り越えれば、素晴らしい栄光が待っていると煽(あお)られるので、自分たちも進んで過酷な状況へと追い込んでいく。

熱中症でバタバタ倒れて、時に死人もでるが、誰も狂気沙汰だとは思わない。ちまたにあふれる「運動部しごき自慢おじさん」が「強くなるにはある程度のシゴキが必要だ」とワケ知り顔で語り、『朝日新聞』のようなメディアも「それが青春だ」と触れ回るからだ。

●なぜ「丸刈り」を続けているのか

日本大学やボクシング連盟、そしてパワハラが問題になる有名企業などをみれば一目瞭然だが、日本社会は基本的に「運動部しごき自慢おじさん」たちがイニシアティブを握り、彼らの「シゴキ=必要悪」理論のもとで動いている。

このようなパワハラ容認社会における「夏の甲子園」は、「シゴキ=必要悪」という宗教の聖地(メッカ)みたいなものである。だから、エルサレムやメッカを移転しようなどと言う話が、これらを聖地とする宗教が到底受け入れられないように、「夏の甲子園」も動かすことは許されないのである。

清く正しい高校野球を、パワハラ企業なんかと一緒くたにしやがってと怒る方たちの気持ちはよく分かるが、残念ながら高校野球が「ハラスメントの無限ループ」に陥っているのは、そのシンボルともいうべきものがよく示している。

「丸刈り」だ。

理不尽なハラスメントが連鎖する組織というのは、まともな思考が阻害され、「手段」が「目的化」してしまう。典型的な例が旧日本軍で、戦争に勝つための厳しい規律をつくったはずが、いつの間にやら厳しい規律を守ることが目的となり、すべての人が「思考停止」のワナに陥って、組織の崩壊を早めた。

高校野球も同じで、本来はチームが強くなることや、試合に勝つという目的のためにハラスメントを再現していたが、長く繰り返しているうちにハラスメント自体が目的化してしまった。それが、「丸刈り」である。

なぜそれを続けているのか誰も答えられない。「丸刈り」で強くなるわけではないが、ほとんどの野球部では問答無用で続けている。かつて大企業の新入社員が、「みんなより早く来て机を雑巾がけしなさい」と命じられていたのとまったく同じで、本来の目的とはまったく関係のない「無意味な慣例」だけが続けられてしまったのだ。

いずれにせよ、「シゴキ=必要悪」と本気で考えているような「運動部しごき自慢おじさん」たちが社会で幅をきかせている限り、「夏の甲子園」は続行されるはずだ。

死者が出ても行われる危険なお祭りとかと同じで、死者が出ても「しょうがない」とされるのだろう。ただ、お祭りと同様に「少子化」が、その世界の人々を加速度的に苦しめていることが気がかりだ。

●高校球児受難の時代

7月、和歌山県の高校のラグビー部顧問の男性教諭が合宿中に酒をくらって、部員たちを殴ったという事件があった。

グラウンド整備が遅いのを注意したところ、「部員の人数が少ないので限界です」と反論され、プチンとキレたらしい。男性教諭からすれば、「オレが部活をやっていたときはそんな弱音を吐かなかったぞ」という憤りがあったのではないか。

同じ悲劇が、高校野球の世界でもみられるのは時間の問題だ。

ただでさえ、「シゴキ=必要悪」の思想のもとでスポーツと異なる部分で虐げられ、熱中症の危険に隣り合わせなところに加えて、人口減少を受け入れられない「運動部シゴキ自慢おじさん」たちに「頭数が足りなければ、気合で乗り切れ」とボコられる。

そんな「高校球児受難の時代」がもうそのあたりまできているのかもしれない。

(窪田順生)