パチンコ産業にはなぜ在日資本が多いのか、という話

今日は「なぜパチンコホールには在日資本が多いのか」ということについて。

正確な統計はありませんが、一般にパチンコホールの7〜8割が在日資本だと言われています。
パチンコメーカーもホールほどではありませんが、平和、三洋、ニューギン、豊丸産業など在日資本が多数あり、パチンコ業界は「在日の産業」といっても過言ではない状態にあります。

ではパチンコ産業が初めから在日資本だったかと言うと必ずしもそうではありません。

パチンコ産業の起こりはどうやら大正時代末期に兵庫県宝塚の温泉に、アメリカ製の「ウォールマシン」と呼ばれるボールゲームが導入されたことに端を発しているようです。その後この機械は随時日本人向けに改良されることになり、1936年には名古屋在住の藤井正一氏が現在の鉄球で遊ぶパチンコの原型を完成させたようです。

このパチンコは戦前ぼちぼち流行ったようですが、太平洋戦争が迫ってくると「不要不急の産業」とされ、各地の遊技場は強制的に廃業させられます。一度パチンコ産業は文字通りゼロになったわけです。

それが太平洋戦争が終わると、少しづつパチンコは庶民の遊びとして復活してきます。そして1948年になると「現代パチンコの父」とも呼ばれる正村竹一氏がいわゆる「正村ゲージ」を開発し、パチンコの大ブームが訪れます。

なお正村も藤井と同じ名古屋人で、名古屋という街はパチンコの歴史において非常に重要な役割を果たしています。そのブームたるや凄まじく、1949年当時に4818件しかなかったパチンコホールは1953年には43,452件と10倍近くにまで増えます。

パチンコホールは参入障壁が低く、遊技機を買い揃えればすぐに参入ができたため日本全国で参入企業が殺到し、このころは特にパチンコ産業で在日資本比率が高いという特徴はありませんでした。

しかしながら1953年に警察が「ギャンブル性を高めすぎる」と連発方式のパチンコを禁じると、パチンコブームは去り、一気に市場が冷え込みます。この落ち込みはブームと同じくらい急速で4万軒を超えるまで増えたパチンコホールは1957年には8792軒にまで減少します。

この過程で日本人のホールオーナーの多くは他産業へと業種転換しましたが、当時人種差別が根強かった日本では在日韓国人、在日朝鮮人の職業選択の余地は乏しく、彼らの多くは経営が苦しい中でもパチンコホールを続けざるを得ませんでした。当時在日の人々の職業選択は事実上、パチンコ、ホルモン屋、性風俗業界、程度に限られていたようです。

こうして戦後のパチンコブーム時の業界への大量参入と、その終焉後の市場の冷え込みによる日本人ホールオーナーの退出によって、パチンコホールの在日資本比率は大幅に高まることになりました。

この後在日コミュニティは経営が苦しい中でも、民族団体等を通じてパチンコホールの経営ノウハウを蓄積・共有して生産性を高め、またメーカーや周辺機器市場に進出していくことで、パチンコ産業はいわゆる「在日産業」としての性格を有するようになります。

そんなわけで「パチンコ産業にはなぜ在日資本が多いのか」というと、端的に言えば「戦後のパチンコブームと日本人の人種差別と在日社会の努力の結果」というところになるでしょうか。