北方領土「色丹島」は浄土宗の領地だった

政府は事実上、北方領土の四島返還を棚上げし、色丹島と歯舞群島の2島に絞って返還交渉を進めようとしている。過去3度、北方領土を訪れたことのあるジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「過去、色丹島は浄土宗の大本山・増上寺の寺領であった」という。戦後73年間、実効支配されている日本固有の領土の知られざる事実とは――。

■北方領土返還に関して安倍首相がトーンダウンしている件

私にとって2月7日は、少し特別な日だ。だが、その日が、何の日か知っている人はそう多くはあるまい。

「北方領土の日」である。北方領土の日は「島々がソ連によって占領された日」と考えてしまいそうだが、違う。択捉島の北側に国境線が引くことを合意した日露和親条約が締結された日(1855年2月7日)にちなむ。

1年前のこの日、私は北方領土返還要求全国大会の場にいた。今年はここ京都の地でニュースを見ながら安倍晋三首相の言葉に耳を傾けた。そして、微妙な表現の変化に気づいた。

昨年、首相は、

「北方四島の帰属問題を解決して、平和条約を締結するとの基本方針の下、一つ一つ、課題を乗り越え、交渉を進めてまいります」

と語気を強めた。つまり、択捉島から歯舞群島までの四島すべてが日本に帰属するとの前提に立った文言であり、四島返還への決意がそれなりに感じられる内容であった。

だが今年は、

「日本国民とロシア国民が、互いの信頼関係、友人としての関係を更に増進し、相互に受け入れ可能な解決策を見いだすための共同作業を力強く進め、領土問題を解決して、平和条約を締結するとの基本方針の下、交渉を進めてまいります」

と、かなりロシア側に歩み寄った表現になっている。政府は事実上、四島返還は棚上げし、色丹島(しこたんとう)と歯舞群島(はぼまいぐんとう)の2島に絞って返還交渉を進めつつある。名を捨て、実を取ることに舵を切ったかのようにも思える。

■「2島返還」でさえも簡単ではない

だが、2島返還に妥協した、と言ってもそうは甘くない。

1月22日にモスクワで実施された首脳会談では両国の主張の溝は埋まらず、見通しは不透明だ。次は、6月に大阪で実施されるG20サミット(主要20カ国地域首脳会議)における日露首脳会談が山場となりそうだが、今のところ事態が動く気配はない。

さて、北方領土が私にとって特別だという理由は、過去3度(2012年、2013年、2015年)、北方領土を訪れている(択捉島、国後島、色丹島)からだ。ビザなし交流事業の同行記者として入域した。

今回のコラムでは北方領土のひとつで“2島返還”の島のひとつ、色丹島の知られざる過去について、お話ししたい。

■北方領土には多くの日本の「お寺」があった

私が色丹島を訪れたのは2013年8月のことであった。色丹島は根室・納沙布岬から北東におよそ70kmの距離に位置する長方形の島である。島全体が丘陵地帯になっていて、湿原が点在する。そこは高山植物や日本でも絶滅した動植物が存在し、実にダイナミックで美しい情景が広がる。いまだ、多くの日本人が目にしたことのない絶景である。北方領土問題が解決した曉(あかつき)にはきっと、この地が世界遺産に登録されることになるのではないか。

(上)色丹島・穴澗湾をのぞむ
(下)色丹島の日本人墓地で手を合わせる元島民

その原風景に、かつての日本人のムラの痕跡が残されている。日本式の建物は全て壊されて存在しないが、「墓石」だけはしっかりと残されている。墓があるということは70数年前まで、人々の「弔い」があったことを意味する。実際、北方領土には多くの寺院があった。

北方領土における仏教寺院の歴史は明治初期、北海道開拓使の時代までさかのぼる。

明治政府主導による北海道開拓が進むに従い、本州からムラ単位で入植。その際に、寺院・神社が一緒にくっついていった。

宗教施設は、移民のコミュニティを強化する役割であり、故郷の象徴でもあり、開拓中に死んでいったムラ人の弔いの場になった。この点、明治時代以降に行われたブラジルやハワイへの移住と同じ構図である。

北方領土では浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、浄土宗、曹洞宗、日蓮宗など計24の寺院(無人の地蔵堂などを含む)が建立されたとの記録がある。択捉島にある博物館には梵鐘が展示されていた。現在、北方四島には寺院の堂宇を支えた基礎や石垣などが、わずかに残されているだけである。

■色丹島はかつて浄土宗の大本山・増上寺の寺領だった

墓地のまわりに広がるムラの風景は、日本の面影はまったくなく、ペンキでカラフルに塗られたロシア人住居が、異国情緒を漂わせている。

それでも1964年から続けられている墓参事業(北方墓参、ビザなし交流)は、元島民にとって極めて大切な行事である。これは、北方領土に残された先祖代々の墓に手を合わせたいという元島民の願いを、人道的立場に沿って旧ソ連が受け入れたものだ。

戦後73年間、実効支配されている地とはいえ、「和の存在感」を示しているのが日本人の墓なのである。墓石には没年や戒名などが漢字で刻まれている。墓石は、いくらロシアが、自国領であることを主張しようとも、そこがかつては日本固有の領土であったことを、国際的にも証明しているのだ。

実はこの色丹島。驚くべきことに過去、私の所属する浄土宗・大本山増上寺の寺領であったのだ。私は色丹島の墓地を訪れた時、三つ葉葵の家紋が刻まれた墓石を確認している。これは徳川家の菩提寺である増上寺の寺紋である。

少し島の歴史を振り返って説明する必要がある。

■ロシア政府と浄土宗が領土交渉していたかもしれない

北方四島は過去一度も外国の領土になったことのない日本固有の領土である。江戸時代(1799年)、幕府は北方四島・千島列島・樺太の蝦夷(えぞ)地を日本の直轄領として開拓に着手。色丹島は、北方領土海域で漁をする船の避難港として整備された。

(上)択捉島の日本人墓地とロシア人集落
(中)倒れた墓もある
(下)択捉島の博物館には梵鐘が展示されていた

明治に入ると、北海道は新政府によって本格的に開拓が進められることになる。しかし、北海道はあまりにも広く、また新政府の予算も潤沢ではなかったため、地方の藩や有力寺院などに土地を分け与えて支配させたのである。これを分領支配という。

1869(明治2)年、真宗大谷派や浄土宗が開拓事業に参画していく。同年9月、新政府が増上寺に割り振った開拓地が色丹島であった。この時、正式に増上寺の寺領として組み込まれている。

だが、寺領であったのはわずか1年ほど。1870年新政府に上知(土地の没収)されている。当時、日本は神仏分離政策を断行中で、寺院領は宗教儀式で使うための敷地以外はことごとく没収された。

仮に今日まで増上寺が色丹島を保有していたならば、北方領土交渉は今とは少し異なる道筋をたどることになっただろう。ひょっとして、ロシア政府と浄土宗が独自交渉を進める、なんてことが生じたかもしれない。

元島民の平均年齢は現在83歳。北方四島で墓参りするには限界の年齢が近づいている。一進一退を繰り返す北方領土交渉。ご先祖さまの御霊はいまでもしっかりと「故郷」に存在し続け、交渉の行方を見守る。

(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳 写真=iStock.com)