「おじさん転がしがうまいよね」って言われました

新しい仕事をはじめて、不慣れなことに落ち込んでいたら「あなたには“おじさん転がし”という立派な特技があるじゃない」と言われました。挨拶がわりの下ネタにニコニコ、食事会に行けばお酌を欠かさず、酒の肴に自虐ネタの2つ3つは仕込んでいく……。この能力、持って生まれたわけじゃなくて、いつのまにか育ってただけな気がします。

●編集部コラム

「おじさん」を持ち上げるのが嫌いな友人

「あなたはおじさん付き合いがうまくて羨ましい」と友人に言われた。
ここでいう「おじさん」は、仕事で付き合う年上の男性全般を指す。もしかしたらこういう呼び方はちょっとモラハラ的かもしれないから、ごめんなさいの気持ちを込めつつ、今回は総称として「おじさん」と呼ばせてもらう。

その「おじさん付き合い」が苦手な彼女、曲がった事が大嫌い、究極の実力主義。会議で繰り広げられる退屈な講釈や、「飲みニケーション」の場での昔話や自慢話にはたちまち地割れがするほどの貧乏ゆすりで不快感を示す。時には手は出ずとも口ぐらいは全然出る(笑)。

「おじさんとうまく付き合えてるアタシ」がどこかで好きだった?

会社勤めでなくなった今となっては、そういう彼女の姿勢を勇敢だと称えることができる。が、会社員だった頃はどうだろうか。別に上司に気に入られるために!と強く意識していたつもりはなかったけど、「そうしておいたほうがいい気がする」から、おじさんたちが喜びそうな態度やその場が盛り上がりそうな気の効いた返しをするように心がけていたし、どこかで「そういうことができる自分」に対して、ちょっと悦に入っていたような気がする。

「太った?」「メイク濃いね、今日デート?」挨拶がわりの容姿への指摘に対する我ながら「座布団1枚!」な返しも、上司との接待に同行し、「コイツもうすぐ30歳なんですよ、誰かいい人いないですかね」と他己紹介され、欲しくもないのに白馬の王子様を待ち望むようなふりをしたりだとか、正直誰に頼まれてやっていたことでもない。たぶん、おじさんたちは私のこの文章を読んだら「お前、ノリノリでやってただろ!」って絶対につっこむと思う。実際、そういうことはあまり苦ではなかった。これが、「おじさん転がしが“得意だ”」という風に見られる所以なのかもしれない。

いつの間にできるようになっちゃったんだろう……。

原稿の進行が遅くて凹んでいるときに「原稿が書けるあなたが羨ましい」とこぼすと、おじさん付き合い苦手な先の友人に「慣れだよ。あなたはおじさんを転がせるじゃない。それは立派な特技だよ!」と返された。
こんなもの、才能でもなんでもないと思ったが、いや、それはすごい才能だと彼女に言われた。

だとしたら、10年近く物を書いて彼女が書く力を身につけたように、私のこの「受け流し術」も、繰り返される何かしらによって身についたのだろうか。
「大人たちなんて、こんな風に返せば喜ぶんでしょ」と、自分が本当は傷ついていたことに蓋をし、態度にすることを諦め、深いコミュニケーションを蔑ろにした結果がこれなのか?

最近、めっきりそういった機会が減ってきた。するとみるみるうちに「あの頃、思ってもいないことを言ったり過剰に喜んだふりをしていたのはなんだったのだろう」と思うようになってきた。同時に、もっと「嫌だった」とか「そういうことは言わないでほしい」とか言っていたら、彼らは自分のことをちゃんと扱ってくれたのかもしれないなとも思った。
若い女の子を軽視していたんじゃなくて、軽視されるような軽薄なふるまいをしていたのは私だったのだから。

「おじさん転がし」の能力の退化

例えば人間が進化の途中で尻尾を失ったように、私のこの「おじさん転がし」の能力も、いつかこの世を生き抜く技術として必要なくなり、退化し、なくなっていったりするのだろうか。私のだけじゃなくて、そういうことが「得意になってしまった」女性全員のこの悲しき技術が。
そんな能力がなくても、男性と女性がうまくコミュニケーションをとれるような世の中がきて、そんな風に人々がコミュニケーションをとっていたことをみんな忘れて。

何十年後か、うっかり軽快な自虐ネタなんかを言ってしまい、孫に「それなんなの?」とか言われて、「ああ、昔はね、こういうことを言わないと女の人は職場で生き抜いていけなかったの」と説明して驚かれたりする未来がくることをちょっとだけ想像してみたりする。