津波にのまれた仙台・荒浜で100年以上続く送り盆行事、今年も

 誰も住めなくなった古里で、地域手づくりの行事が記憶と絆を未来へつなぐ。東日本大震災の津波に街並みがのまれ、住宅を建てられない災害危険区域となった仙台市若林区荒浜。震災後も送り盆の灯籠流しが休まず続けられている。先祖や津波の犠牲者を悼み、在りし日の営みをしのぼうと、今年もかつての住民が集った。(山田有紗、坂田奈緒子)

二瓶さん夫妻(左から2、3人目)は灯籠流しで久しぶりに知人と再会。会話が弾んだ=8月17日午後7時ごろ、仙台市若林区荒浜

[仙台市若林区荒浜]震災前は約800世帯2200人が暮らした。震災で高さ9メートル超の津波に襲われ、約190人が死亡。県道塩釜亘理線(当時)の海側は2011年12月、災害危険区域に指定された。海から約700メートル離れた4階建ての荒浜小は2階まで浸水、避難した住民ら320人が助かった。東宮城野小で授業を続けたが、16年3月に閉校。17年4月から校舎が震災遺構として公開されている。

灯籠が古里の面影映す

 8月17日午後6時半、灯籠の明かりが荒浜に沿う貞山堀に揺らめきだした。

 「元気だった?」「あの人、どうしてるかな」。たわいのない会話に、表情がほころぶ。荒浜新堀端にあった自宅を津波で失い、仙台市宮城野区新田に住まいを移した二瓶そのさん(77)は、顔見知りの元住民と偶然再会し、話し込んだ。

 「住むことはかなわなくても懐かしい場所。昔の仲間と会えるとうれしい」と二瓶さんは話す。

 荒浜の灯籠流しは100年以上前から行われてきた。今年は約400人が訪れた。往時の活気がつかの間ながらもよみがえる。約100個の灯籠が水面(みなも)を漂い、堀端を行き交う人をはかなげに照らす。

 2011年8月20日、震災から半年足らずのあの夏も、がれきが残る廃虚の中、灯籠流しは行われた。津波で街灯や人家の明かりが失われ、夜は暗過ぎるため、日中の実施だった。
避難先から集う
 災禍に巻き込まれた家族、知人を供養しようと、古里の面影を求めて心を癒やそうと、避難先から集まった。「誰かと会えるかなと仮設住宅から出掛けた。顔なじみを見てホッとした」と二瓶さんは振り返る。

 18年には夕暮れ時の灯籠流しが再開した。「震災前の懐かしい光景が戻ってくれば、ゆかりの人がもっと来てくれると思った」。実行委員長で震災遺構荒浜小職員の高山智行さん(41)=仙台市若林区=が語る。元住民と支援者で実行委をつくり、照明も用意して実現にこぎ着けた。

 たそがれが闇へと移る午後7時半、打ち上げ花火が始まった。192発、地区の震災慰霊碑に刻まれた犠牲者と同じ数の光の輪が夜空を彩る。「人が集まるきっかけをつくりたい」。荒浜で生まれ育った会社員末永新さん(29)=茨城県東海村=が中心となり、1970年代に3年間だけ行われた幻の企画を19年に復活させた。今では恒例行事になりつつある。
新たな輪広がる
 津波は土地に根付いた生活も美しい風景もかけがえのない命も踏みにじった。それでも古里を慕う気持ちは奪えない。灯籠流しと花火を支えるそれぞれの実行委は年々増え、約40人に膨らんだ。半数以上は荒浜以外の出身者。行事が古いつながりを守り、新たな輪を広げる。

 仙台市青葉区の小学校で教師を務める佐藤慎吾さん(37)=宮城県富谷市=が3人の子と花火を見上げていた。荒浜東の自宅は津波で流され、いつか働きたいと願った母校・荒浜小は震災遺構となった。自分も子も荒浜には暮らせない。

 だからこそ灯籠流しと花火を一緒に見たかった。「子どもと荒浜の楽しい思い出をつくっていきたい」。折々に子と訪ねては、古里の四季を体験し直している。「これからもいろいろな人が集まる場所になってほしい」。祈るような表情が花火に浮かび上がった。

「荒浜はこれからも心の支え」。震災遺構となった母校を背に語る佐藤さん

「懐かしい風景これからも」荒浜小6年で被災した花火実行委員 佐藤渚さん

 宮城県大崎市の小学校に教師として勤務する佐藤渚さん(26)=仙台市宮城野区=は2021年から、灯籠流しに合わせて行われる打ち上げ花火の実行委員を務める。家族が語らい、隣近所のおばちゃん、おじちゃん、幼なじみと笑顔を交わす。そんな懐かしい、当たり前だった荒浜の風景をこれからも見続けたいし、誰かに見てもらいたいと願う。

 3月11日は荒浜小の6年生だった。2階の図書室の掃除をしていた時、大きな揺れに襲われた。停電で校内放送は流れず、先生の指示で4階の教室へ急いだ。

 約30分後、母と中学2年の兄が避難してきた。父ともう1人の兄は内陸部にいるはず。足の悪い祖母が現れない。心配になり探しに行こうと一階に下りると、「上へ上がれ」と大人の怒鳴り声が聞こえた。慌てて階段を駆け戻った。

 屋上に出ると、学校の周りは黒い水に囲まれていた。「映画を見ているようだった」。廊下でカーテンにくるまって眠れない夜を過ごし、友人と会話して心細さをごまかした。翌日午前4時ごろ、ヘリコプターで救助された。祖母は知人と避難して無事だった。

 現実味がなく、その後の感情の動きははっきりしない。津波で流された自宅の土台が片付けられ、悲しかったのは覚えている。

 中学の同級生はほとんどが地元出身。恐ろしい震災の思い出をあえて口にする子はいなかった。高校では荒浜出身と知られると、相手の表情が変わり、周囲の反応が重くなるような気がした。震災は話題にしない方がいいと感じた。

 心境が変わったのは大学生の時だった。ボランティア先の小学校に荒浜小でお世話になった先生がいた。小学生に震災のことを話してほしいと頼まれた。子どもたちは真剣に聞いてくれた。自分の経験が役に立つんだとうれしかった。

 荒浜の被害は甚大だった。たくさんの命と暮らしが犠牲になった。ただ、悲しい場所だと決めつける見方には抵抗がある。お気に入りの風景、楽しい思い出がたくさんある。

 そんな当たり前の日常を、津波は一気に取り上げた。今は自宅の跡がどこなのかも分からない。急激な変化に心が追い付く間もなかった。今の生活だっていつなくなるかもしれない。

 だから、灯籠流しと花火をいつまでも守りたい。懐かしい人と新しい人が集い、かつての街並みのあちこちに談笑の輪が広がる。「この日だけだけど、昔の荒浜みたい」

 学校では児童に震災や昔の行事など荒浜のことを自然体で話す。「古里は大切にしなければならない。失う悲しみを知っているからこそ強く思う」。伝え続ける。荒浜を消さないために。

 初対面の記者に対し、かつて荒浜に住んでいた方々は古里の思い出をたくさん教えてくれた。再会の場面に立ち会い、自分の古里を重ねた。変化していく古里に抱く思いは一人一人違う。その思いを聞かせてくれた人々に感謝し、これからも荒浜を見つめ続けたい。(山田有紗)

 震災後、荒浜沿岸一帯は災害危険区域になり、かさ上げ道路の整備などで街の姿は一変した。私はかつての風景を見たことがない。灯籠流しで出会った人と言葉を交わして、在りし日の風景や行事、人の温かさを感じた。また訪ねたいと思いながら荒浜を後にした。(坂田奈緒子)

 この記事は、震災報道や記憶の継承を考える河北新報のプロジェクトの一環として、震災後に入社した若手記者が担当しました。

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