【最終回】世界不況の出口に最も近いのは日本だ
立田 博司
第1回目の「人生の相場観を持てば、もっと豊かになれる」において、日本は「生みの苦しみ」を味わいつつも、その後には生まれ変わった「新しいニッポン」が誕生すると述べました。そして、「新しいニッポン」を考えるに当たっては、「世界観」と「歴史観」の双方で「大局観」をしっかりと持つこと、トップダウン・アプローチとボトムアップ・アプローチ、部分最適と全体最適の考え方を融合させること、さらには経済も社会も政治もすべて「人間」の営みであるから人間の心理も含めて複雑系で動態的に考える必要があること、という指針を示しました。
この指針に沿って、世界で起こっている様々な事象の歴史的・世界的な意義を20回にわたり考察してきました。最終回となる今回は、全体を総括して来るべき「新しいニッポン」の姿を描き出していきたいと思います(詳細については、これまで述べてきた部分を参照ください)。
医療と金融、2大改革に挑む米国
米国では先週、歴代の大統領が何度も挑戦しながらも成し遂げられなかった医療制度改革法案が成立し、改革が始まりました。残念ながら当初描いていたような国民皆保険の姿とは違ってしまいましたし、もしかしたら将来(今の日本の郵政改革のように)骨抜きにされることになるかもしれませんが、高所得者層しか満足な医療を得られないという「格差」を是正する第一歩を踏み出した歴史的な意味はとても大きいと思います。
バラク・オバマ政権はさらに、中間選挙までには金融制度改革についても法案化する姿勢を見せており、この30年間の格差拡大の象徴的な2つの改革を成し遂げられれば、歴史に名を残す大統領として後世に覚えられることでしょう。
私は、リーマンショックという世界的な大事件の最中に、米国では民主党からオバマ大統領が生まれ、それと軌を一にして日本においても(その中身は別にして)民主党政権が誕生し政権交代が実現したということは、日米だけではなく、世界の大きな転換点を示すものではないかと考えています。それは私たちが、 100年、50年、30年という大きな歴史的循環が重なっている大きな転換点に生きているからなのです。
歴史を紐解くと、20世紀は米国が覇権を確立した100年だったと言えます。18世紀後半から19世紀前半の産業革命以降、「近代工業社会」を体現してきたのは19世紀の英国でしたが、20世紀に入ると2度の世界大戦と冷戦、そして冷戦の終結を経て覇権を握ったのは米国でした。20世紀前半には内燃機関(エンジン)をコア技術にして自動車をはじめとした新しい産業群を生み出し、20世紀後半には半導体を使ったコンピューターとブロードバンド通信によって IT(情報技術)産業という一大産業群を生み出した結果、20世紀末には政治・文化・社会・経済・軍事のいずれの面においても米国一極集中という栄華を極めたのです。
一方で日本も、戦後の荒廃の中から米国を目指してものづくりに励んだ結果、1990年には世界第二の経済大国にまで成長することができました。日米がその経済力を謳歌していた1990年代前半に、中国は社会主義を維持しながらも市場経済化を導入して近代化・工業化を強力に進めたことにより、水面下では「近代工業社会」の中心が日米欧といった先進国から中国をはじめとした新興国に移り始めていたのです。こうした流れを背景に、21世紀が始まってまだ10 年ではありますが、私は21世紀の覇権が100年間という長い時間をかけて中国に移るのではないかと考えてきました。
20世紀に企業主導による「大量生産・大量消費型」の「近代工業社会」が生み出した日米欧の先進国は、21世紀には成熟経済に移行して消費者主導による「少量多品種カスタムメード型」の「ポスト近代工業社会」の姿を模索することになり、世界の成長を主導する覇権国の座は米国から中国に渡ることになるということなのです。
その過程で、世界の中で新興国に生産と消費の中心が移っていくことによって、必然的に世界レベルでの破壊的イノベーションが起こるので、新興国の需要が増す稀少なモノの値段は上がりやすくなり、加工されたモノの値段は新興国価格に鞘寄せ(さやよせ)されやすくなる可能性が高く、消費者物価ベースではなかなか価格が上がりにくい、あるいは下がるというデフレ傾向が世界的にしばらく続くのではないかと思っています(これに加えて、後ほど述べるネット化も強力なデフレ要因です)。
また、20世紀までの「近代工業社会」は基本的に消費者にモノを大量に安く供給することによる豊かさを目指した社会だったのに対して、21世紀に先進国が直面する「ポスト近代工業社会」では、「モノやカネそのものの価値」から「目に見えない本物の価値」に価値観が移行していくと考えています。これから創り出していく「目に見えない本物の価値」は、情報を資本財とした新しいサービスや工業化社会で失われてきた有限の「地球環境」、あるいはカネやモノに溢れても得られなかった人間としての幸せ・豊かさ・満足感なのかもしれません。
それと同時に、「目に見えない本物の価値」を生み出す資本財は、モノを生み出すためのカネやモノといった産業資本財から、人間が持つ「情報」「知識」を昇華させた「知恵」や「知恵」を生み出すための文化・コミュニケーション・やる気・創造性といった人間そのものの価値、そしてそれらを創り出す組織になっていくのではないかと考えています。
「情報革命」は始まったばかり
こうした覇権の移動や価値観の変化が100年単位の大きな流れだとすれば、50年単位では技術革新の波が訪れています。20世紀後半には、半導体や通信技術によるハードウエアのインフラが爆発的に普及してIT化が進むことによって情報革命の基盤を築くことができましたが、同時に20世紀の先進国を支えた自動車が電気化され電気機器もデジタル化されることによってモノのモジュール化・汎用品(コモディティ)化・低価格化が進んで、需要・生産の中心はこれまでの先進国から新興国へと移動し始めています。
21世紀前半の先進国では、築かれたITインフラを活用して「ネット化」がさらに進むことにより流通構造が変わることに代表されるように、20世紀までの社会や習慣ががらりと変わる破壊的イノベーションが起こるでしょう。またそれとともに、これまでブラックボックスによって既得権益を謳歌してきた様々な仕組みが、1つまた1つと壊されてオープンになることで、既得権益者から個人へと主導権が移動し、無駄なコストが白日の下にさらされるようになるという文字通りの「情報革命」が本格化することにもなるでしょう。
これは少子高齢化が世界的に進む中で、世界が便益を落とさずにコストを下げてさらに効率的に運営できるようになるという意味で非常に大きなインパクトを持ちますし、20世紀後半に広がり続けた格差の是正にもつながるでしょう。こうした意味で、20世紀末の1990年代後半になってようやく始まったインターネットの普及こそが、実は21世紀前半の新しい技術革新の波であり、まだまだ「情報革命」は始まったばかりだという認識を持つ必要がありそうです。
この30年間を振り返ると、既に「近代工業社会」が先進国において終わりを告げ始めていたにもかかわらず、覇権の移動に抵抗して最後の「一時的にかさ上げされた」成長を謳歌した時期だった、のではないかと考えています。英米では30年前に、マーガレット・サッチャー元首相、ロナルド・レーガン元大統領という新しい指導者の下で大きな政府から小さな政府への大転換を図ることによって、オイルショックと大きな政府の非効率により停滞していた経済を立て直すきっかけを得ることができました。
それに加えて1990年前後からは、冷戦の終結やそれに伴う旧社会主義国の安価な労働力の流入による労働コストの劇的な低下と、ITハードウェアの爆発的な普及、長期金利の趨勢的な低下が重なったことによって、覇権を握ってきた米国が最後の大花火を上げたのです。その過程では、金利が下がり続けて金融のリスク不感症が拡大する中で世界的な過剰流動性が生まれたことにより、米国の過剰消費と新興国の過剰投資という維持不可能な世界的不均衡を拡大させたことが、今般の世界金融危機につながったと考えています。
世界金融危機は経済危機へと連鎖して「100年に1度」と言われるようなグローバルで同時的な大きな変動をもたらしましたが、世界の英知を結集した財政・金融政策を総動員した緊急避難措置により、いったん収束したかに見えます。ただ現在の状態は、民間の危機を国・政府・中央銀行の財政危機に置き換えただけで、問題の根本的な原因である世界的な過剰流動性と不均衡についてはほとんど手が付けられていないうえ、これから国・政府・中央銀行は、復活したかに見える民間にそのツケを回さざるを得なくなると考えています。
痛みを伴う最終処理は民主主義においては世論の合意ができてからしか行なえないことに鑑みると、欧米においても日本と同じように問題の先送りを続けながら、根本的な構造改革になかなか踏み出せない停滞の時期が長く続く中で、徐々に成熟経済化が進んでいくのではないかと考えています。こうした見方から、 30年間の「一時的にかさ上げされた成長」とそれを支えた行き過ぎた資本主義や格差の是正は、米国にとっては避けられない道筋だと思っています。
30年間の常識はなかなか捨てられない
私たちは今、100年、50年、30年という歴史的循環における世界的な転換期にいるという大きな環境変化を認識したうえで、これまでとこれからの世界のあり方を大局的に考えていく必要があります。グローバル化が進んできた現在、世界各国が同じような問題に直面して同じ処方箋で解決できるように考えている向きもありますが、各国の歴史的背景を辿ると、必ずしも同じ「今」ではないからです。
上述したように、米国はこの30年間、大きな政府から小さな政府へという大きな流れの中で、民間に任せたほうがいいことは民間に任せるべく規制緩和を実施し、市場を活かした資本主義を押し進め、また結果として悪い意味でのアメリカンドリームを肯定し奨励してきました。私の見方ではこの30年の間でも、 1990年代半ばまでは活性化された米国が具現化されて正常な状態が保たれていたのですが、1990年代後半以降、特にITバブルのピーク辺りでは既に行き過ぎが生じ始めていました。
それにもかかわらず、2000年のITバブルの崩壊や2001年の世界同時多発テロ事件などの危機を克服するために、金融を過度に緩和し過ぎて過剰流動性を作り出してしまった2000年代に入ると、明らかに小さな政府や自由化の弊害が顕著になってしまいました。その結果として、軋みが表面化して世界金融危機を引き起こし、経済繁栄の裏では所得が伸びない層とあり得ないほどに裕福な層の格差が著しく拡大してしまった今日では、既にこの30年間の反省期に入り始めています。
もちろん、長い間当たり前のこととしてきた大きな流れが反転する初期段階では、これまでの流れで恩恵を受けてきた既得権益を失いたくない層からの反発は大きいし、またなぜ変わらなければならないのかという国民的な合意を形成するには時期尚早なので、また以前の状態に戻れるのではないかという「変わりたくない症候群」が多数を占めるのが通常です(日本でも十分に経験してきたことです)。
今の米国はとりあえず目先の危機が去って「喉元過ぎれば熱さ忘れ」た状態であって、いまだに新しい常識(New Normal)を受け入れる状態ではないと思います。いくら変化を受け入れることに慣れている米国と言えども、30年間の常識を捨てて、小さな政府から大きな政府へ、自由主義から修正自由主義へ、カネを中心にした資本主義から新しい資本主義へ、アメリカンドリームから平等へ、という大きな価値観の変化を伴うNew Normalを受け入れられるようになるには、それなりの時間をかけた危機感の醸成が必要になると思います。
こうした意味で、米国の歴史的な変革は日本と同じように長い時間をかけて起こるでしょうし、医療制度改革や金融制度改革はこれから始まる変革の第一歩を踏み出す象徴的な出来事にしか過ぎないと考えています。
実力と評価にギャップがある中国
少々寄り道をして、新興国について大局的に触れておきたいと思います。新興国、その中でも特に中国は、100年という超長期で捉えれば、世界の中でも有数の超大国、そして多分に覇権国になり得る可能性を持っていることについては、既に述べた通りです。ただ一方で、米国が100年間かけて自国内の革新と他国との関係性を築いてきたのと同様に、中国も一直線に成長を続けるというよりも、これから紆余曲折があって100年間かけて覇権国としての地位を築くと考えるべきでしょう。
世界金融・経済危機の直後の混乱期こそ中国の存在感が高まったように見えましたが、混乱がひと段落した昨年末辺りからは、米中の対立が鮮明になる中で、中国の国際社会における地位について様々な議論がわき起こり始めました。本質的には、共産党一党独裁という民主主義の対極にある政治体制と市場資本主義を併存させることによる歪みを内包させたままで経済成長を続けてしまえば、民度の向上とともにそう遠くない将来にその矛盾が顕在化する可能性は否めません。
言うなれば、まだまだ未成熟であるにもかかわらず、周りの大人におだてられて本人もその気になって実力以上に背伸びをしてしまっている子どものように、本来の実力と評価に大きなギャップがあると自国の中に無理が生じて、いずれ期待を裏切る結果を招くかもしれません。
もちろん、高まった評価に対して、謙虚に耳を傾け真摯な努力を続けることによって飛躍的な成長を遂げるゴルファーの石川遼選手のようなタイプであれば(少々不適切なたとえかもしれませんが)素直な成長を遂げられるかもしれませんが、現在の中国に関してはその可能性はあまり高くないだろうと考えています。また他の新興国も、長期的な成長性については可能性が高いと考えていますが、新興国それぞれに異なる成長制約を内包しており、リーマンショック以降さらに世界中の成長期待を受けて成長を続けている現在の状況は、少々慎重に見ておいたほうが良さそうです。
さて米国に対して日本は、既に「失われた20年」という長い間、世界で起こっている大きな歴史的変化に対して、過去の成功体験を徐々に忘れて厳しい現実に直面するための時間を過ごしてきました。
思い返せば明治維新以来、日本は欧米列強に追いつき追い越すという国是を軸に努力をしてきましたし、さらに戦後には荒廃の中から世界第二の経済大国にのし上がるほどに経済的な成功を収めました。またそれを支えた国・官僚システム、社会保障の仕組み、産業・企業構造をはじめとしたあらゆる面での強固な高度成長モデルは、「Japan As No.1(ジャパン・アズ・ナンバーワン)」と評されたように世界からも驚異の目で見られるほどの成功モデルでした。
その意味で、日本をここまで発展させてくれた先人たちの素晴らしい努力には心から敬意を表するところです。ただ私の歴史観では、日本の高度成長モデルとその結果は、あくまでも「近代工業社会」の枠組みの中で欧米に追いつくための成功モデルであって、既に欧米に追いつき、そして先進国が「ポスト近代工業社会」に移行する21世紀においては、いったんその成功体験と成功モデルを捨てて、新しい成功モデルを模索する時期に入ってきていると考えているのです。 21世紀には、上述のように価値観や付加価値の生み出し方が劇的に変わるにもかかわらず、国・官僚・産業・企業から個人に至るまでこれまでの仕組みや意識にしがみついてきたことこそ、「失われた20年」の元凶なのではないでしょうか。
「だからこそ」日本は大丈夫
このように考えると、「やっぱり」「だから」日本は駄目だという声が聞こえてきそうですが、私は「だからこそ」日本は大丈夫なのではないかと思っています。大きな変化が起こる時に民主主義国家において最も困難を極めるのは、上述のように変化を受け入れ、自ら変わらなければ生き延びることができないということを国民的に合意することです(ソブリン・リスクが叫ばれているギリシャでは、国家の危機にもかかわらず、変わりたくない国民がデモを繰り広げているのは、これを象徴しています)。
共産党の一党独裁国家や強力なリーダーシップに慣れている民主主義国家であれば、リーダーの先見性次第では変わるべき姿を明確に示して国民を引っ張っていくことで素早く強力に変わることが可能です。経済的躍進で話題になっている今の韓国はその1つの例です。韓国では、歴史的背景から国民に国家としての危機意識が非常に強いうえに、大統領のリーダーシップが強く、また民間においてもオーナーの決断が大胆で素早い、そしてその決断を受け入れる国民的土壌がある、といった複合的な要因から、変化に素早く対応できているように見受けられます(もちろんその裏には様々な弊害が潜んでいることも理解する必要があります)。
日本でも、小泉純一郎元首相のリーダーシップの発揮の仕方は(残念ながらその後のリーダーには徹底されませんでしたが)、韓国に通じるものがあると感じています。いずれにしても、通常の民主主義国家において変化を受け入れるという国民的合意を得るのは非常に難しく、また長い時間がかかるのですが、日本では既に20年もの時間を費やしてほぼ国民的な合意ができていると考えています。変化の土壌はできあがってきていて、後は何かしらのきっかけさえあれば、雪崩を打ったように変化が押し寄せてくる状態にあるということです。
ではそれにもかかわらず、なぜ日本はなかなか変わらないのか。様々な個人の方と話していると、私以上に日本に対する危機感が高い方が多いのをひしひしと感じます(ただ、だから何か行動を起こすかといえば、個人においては評論家が多いのは事実ですが)。日本の「変わりたくない症候群」がなかなか解決しない元凶は、実は、既得権益を握っているサラリーマン経営者や、肌感覚がずれているにもかかわらず目先の選挙で議席を確保することしか頭にない政権中枢の政治家たちではないかと思います。
せっかく大局的な見地から合併して競争力を高めようと試みたにもかかわらず些末なことで破談になる合併が多いことや、会社が危機にあるにもかかわらずお家騒動に明け暮れる経営者を見ていると、まだまだ危機感が足りないのかとがっかりしてしまいます。ただそれも、もうこれ以上の大盤振る舞いができない財政赤字を世界各国政府が抱え、中央銀行も量的金融緩和で不良債権を抱えてゼロ金利政策にまで行き着いてしまった今となっては、先送りする状況にはありません。
今後、欧米のみならず新興国も含めた外需の減退や円高の進行、デフレの世界的な進展といったさらなる外部環境の変化が現出すれば、否応なしに産業界の構造変化は進まざるを得なくなります。そうなれば、企業も変化せざるを得ませんし、企業で働く従業員としての個人にとっても根本的で厳しい変化を迫られます。その結果、選挙民としての個人の怒りの矛先が政治家に向かい、政治の根本的な変化を求める力が増すことになるでしょう。
まさに「新しいニッポン」が生まれるための「生みの苦しみ」がこのような過程で進む可能性が高い、後はきっかけ次第だということです。これから未処理の根本的な課題解決に向けて国民に変化の土壌を作り出していかなければならない欧米と比べると、日本は既に「失われた20年」を経ているだけに不良債権処理が進んでいるし、幸か不幸かバブルに踊れなかったがゆえに金融は健全であり、少子高齢化・社会保障費の拡大・財政赤字の拡大といった課題が先行している国だけに、国民の間の危機感の醸成も進んでいるのです。(処理さえ間違わなければ)変化に対応するという意味での出口には一番近いところにいるのではないかと考えています。
日本的価値観が世界の尊敬を集める時代
21世紀前半の日本に求められているのは、既に歴史の遺物となってしまった「近代工業社会」の戦後の高度成長を支えたあらゆるモデルを根本的に見直すことと同時に、「ポスト近代工業社会」の新しいモデルを国・企業・個人のすべてのレベルで構築することです。そのためにまずは、世界の大きな変化を直視して、それに対して日本が抱える問題を客観的に把握したうえで、全体最適が図れるような処方箋を戦略的・合理的なマインドで描いていくしかないでしょう(これまで本コラムで述べてきた通りです)。
また新しいモデル構築に際しては、日本が伝統的に培ってきた日本的価値観である「おもてなし」という顧客志向や、知恵を生み出すのに最適な和やチームワーク、長期的・継続的に努力していくことにより積み上げられた信頼という無形の財産、といった強みを活かしていくことを忘れてはなりません。ただ一方で、欧米が持っているダイナミズムや合理性、戦略的・大局的な発想をも取り入れた「新しいニッポン」の資本主義モデル、経済モデル、企業モデルを創り上げることが肝要です。
その結果として生まれる「新しいニッポン」は、「近代工業社会」において成長し続けてきた経済と違って巡航速度の経済成長ながらも、人の付加価値が高まり生産性も向上することにより、人口は減る中でも豊かさを感じられる成熟経済・社会のあり方を具現化してするものになるのではないかと考えています。
このように私は、「生みの苦しみ」を味わいつつも、その後には生まれ変わった「新しいニッポン」が誕生すると考えていますし、21世紀に求められるのがヒトを中心にした付加価値への変化とそれを生み出す「知恵」になるであろうことを考えると、今後、ヒトを価値観の中心に置いてきた日本的価値観が世界において尊敬を集めるようになるのではないかと、ひそかに日本の将来を楽しみにしています。
また、個人として自分の人生をどのように生きるのかを考える際には、世の中の流れを読みながら自分のキャリアや人生をタイミングも含めて考えていく、という「人生の相場観」を持つことによって、1人ひとりの人生をより豊かにすることができるのではないかと信じています。
日本が置かれている現状と今後の方向性について、歴史的・世界的な視点から分かりやすく伝えられればと思って様々な視点から持論を述べてきましたが、これにより少しでも日本人の未来が明るくなり、日本の将来の一助になれば幸いだと願っています。