「ジャニーさんのひざの上に乗って耳舐めなきゃだめだよ」“ジャニー性被害”を26年前に告白した元アイドル・豊川誕が明かす

「……1回、1回だけありました」

 ためらいがちの告白だった。

 6月のある休日。その男性とは、駅前のとあるファミリーレストランで待ち合わせた。家族連れで賑わう店内で50年以上前の“経験”を明かした。

「ジャニーさんのマンションで1回、お尻にされました」

「ことしで65歳になる」というその男性の名は、豊川誕。1975年、ジャニーズ事務所から「汚れなき悪戯」でレコードデビューを果たした「ジャニーズアイドル」の一人だ。

 事務所の黎明期に活躍した4人組グループ「フォーリーブス」の弟分のような存在として人気を博した豊川もまた、ジャニー喜多川氏による「性被害」の経験者だったという。

「『合宿所』と呼ばれていたジャニーさんのマンションで1回、お尻にされました。事務所への入所が決まってからすぐのことだったと思います」

 豊川によると、ジャニー氏の自宅でもあった「合宿所」は、東京・港区飯倉片町にあった。当時から「ジュニア」と呼ばれるデビュー前の少年たちが出入りし、ジャニー氏と雑魚寝する光景も目にしていた。

ジャニー氏の「推し」ポジションを郷から引き受ける

 入所早々にジャニー氏のお眼鏡にかなった豊川には、ほかのジュニアたちにはない“特権”が与えられた。

「ジャニーさんから『ユー、この部屋使いなよ』と言って個室をあてがわれました。事務所を退所してしまった郷ひろみが使っていた部屋です」

 ジャニー氏は、「合宿所」につながる電話番号を「5103(ゴー・ヒロミ)」と芸名をもじったものにするほど、郷に目をかけていたという。

 しかし、ジャニー氏が心血を注いで育てた郷は1975年、設立間もないバーニングプロダクションに移籍。郷の「部屋」を引き継ぐことで、豊川は郷からジャニー氏の「推し」としてのポジションも引き受ける格好となった。

「郷が使っていた個室には、デビューを約束された別の少年がいましたが、僕がやってきてその子はすぐにいなくなりました」

 豊川によると、ジャニー氏が行為に及んだのは、入所から数日経ったある日のこと。

 豊川がひとり、「推し部屋」のベッドで寝ていた時に、ジャニー氏が布団に潜り込んできたという。

「合宿所に入ってから3日も経ってなかったと思います。はっきりした記憶はないですが、お尻に突っ込まれてものすごく痛かったことは覚えている。あんまり痛いし、やっぱり気持ち悪いじゃないですか。だから、その後、2回目にされそうになった時は、はっきりと『嫌だ』と拒否しました。そうしたら諦めたようで、強引にしようとするようなこともなかったですね」

退所後、芸能界でキャリアを積むことは叶わず

 豊川は1974年11月にジャニーズ入りし、半年足らずのうちにレコードデビューを果たしている。

 高野山真言宗の僧侶を父に持ち、信心深い一面があったというメリー喜多川氏から、東京・赤坂の豊川稲荷東京別院の「豊川」、ジャニー氏の頭文字「J」を組み合わせた「豊川誕」という芸名を授かった点などからも事務所側から寄せられていた期待の大きさが窺える。

 しかし、兵庫県姫路市内の児童養護施設で育ち、「正確な生まれ年も両親の顔も知らない」という複雑な出自を前面に打ち出した事務所の売り出し方への反発もあり、1977年にはジャニーズ事務所を退所。その後、俳優への転身を図った時期もあったが、大成することはなく、芸能界で確固たるキャリアを積むことは叶わなかった。

 流転の芸能人生は、2012年に肝臓がんで急逝したフォーリーブスの北公次(享年63歳)がたどった足跡と重なる。

北公次が豊川に向けた敵意の意味

「北公次とは、合宿所で何度か会いました。キッチンに壁面収容式のベッドがあって、彼はきまってそこで寝ていました」

 ともにジャニー氏の寵愛を受けた2人だったが、会話らしい会話はなかった。ただ、事務所に所属するタレントが集まったコンサートで一緒になった時の出来事は鮮明に覚えているという。

「中野サンプラザで行われたコンサートで、『ちょっと来い』ってトイレに呼び出されたことがあった。フォーリーブスの中で一番激しい男でしたから。僕がジャニーさんのお気に入りだってことも知ってるから、あいつ生意気だってことになったんだと思うんですよね」

 豊川に向けた敵意の意味は何だったのか。

「告発」がきっかけで世間の耳目を再び集めることに

 鬼籍に入った北に真意を質すことはもはや叶わないが、豊川がデビューした頃には、すでに北が所属するフォーリーブスの人気は下降線をたどっていた。移り気なジャニー氏の寵愛が後輩に向けられたことに複雑な感情を抱いていたとしても不思議ではない。

 その後、ジャニーズの最初の黄金期を支えたフォーリーブスは1978年に解散し、直後に北も事務所を退所。1979年に覚醒剤取締法違反容疑で逮捕されると、凋落は決定的となる。一方の豊川もジャニーズを去ってからは不遇の時を過ごした。

 2人が再び世間の耳目を集めたのは、くしくも同じ「告発」を行ったことがきっかけだった。

 北は1988年に自身の半生を綴った自伝「光GENJIへ」を出版し、ジャニー氏から受けた性被害を暴露した。一方の豊川も、1997年に、「ひとりぼっちの旅立ち——元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記」でジャニー氏との関係を明らかにしている。

「ジャニーさんのひざの上に乗って…」

 これらの作品中にある「セクハラ行為」の記述は、ジャニー氏の「性加害」を追及した1999年の「週刊文春」のキャンペーン報道をめぐり、ジャニーズ事務所が、発行元の文藝春秋を訴えた名誉毀損裁判でも注目を浴びた。

 2003年7月15日の東京高裁判決は、セクハラに関する記事を指して「重要な部分について真実であることの証明があった」として、文春の記事のジャニー氏の「セクハラ」に関する部分の真実相当性を認めた。と同時に、北と豊川それぞれの著書での「セクハラ行為」の記述にジャニー氏側が抗議しなかった点を指摘している。

 ジャニー氏が積極的な反論・反証を行わなかったことが判決に影響を及ぼしたのだ。

 とはいえ、当事者である豊川には性被害者としての意識は薄い。「正直いって仕方ない面もあると思うんです。実際、プロモーターの人にも言われましたから。『ジャニーさんのひざの上に乗って耳舐めなきゃだめだよ』って。僕はそこまでできなかったけど、スターになるためには何でもしなきゃいけない。そういう世界なんですよ」

ジュリー社長は「恥ずかしそうにメリーさんの後ろに…」

 しかし、時は過ぎ、潮目は変わった。

 希代のアイドル帝国を築いたきょうだいの死、海外メディアからの“外圧”、そして勇気ある告発者の出現――。いくつかの条件が重なったことで、アイドル業界の歪な支配構造があらわになりつつある。

 「令和」の激動とは対照的に、還暦を過ぎた「昭和」のアイドルの言葉は、激変する世界を前にした高揚を宿してはいなかった。見えるのは、残酷なほどに激しい時の流れであり、かつていた世界が濁流に呑み込まれる様を、ただ戸惑いながら見つめるひとりの男の姿だけである。

 だが、重ねた時間が語らせる言葉から見えてくることもある。

 亡きメリー喜多川氏から実権を継いだ藤島ジュリー景子社長について、筆者が問いかけた時だった。

「ジュリー社長のことは、僕が事務所にいた時から知っている。小さな時から事務所に出入りしていましたから。いつもメリーさんのデスクの隣にいて、僕がちょっと声をかけたら恥ずかしそうにメリーさんの後ろに隠れるんです。大学もちゃんと行って卒業して。まじめな子だから、彼女は関係ないですよ」

ジュリー社長は本当に何も「知らなかった」のか

 豊川の答えに、非難の色はまったくなかった。彼女の幼少期を知る一人として、苦境に立つ事務所の長としての苦労を慮る心情ばかりが感じられた。しかし、そこでひとつの疑問が浮かぶのだ。

 ジャニー氏の「性加害」問題を受け、ジュリー氏は5月14日、一連の問題について動画で謝罪した。そこで彼女ははっきりとこう言ったのである。

「知らなかったでは決してすまされない話だと思っておりますが、知りませんでした」

 年端もいかぬ頃より、母親の側でアイドル帝国のすべてを見てきた彼女は、本当に何も「知らなかった」のか。真実を知る術はまだ見つかっていない。

(安藤 海南男/Webオリジナル(特集班))

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