■ 価値観の押し付けに「ノー」
「働き方改革は、ものすごく矛盾している」
「その通りだ。自由度の高い働き方を、と言いながら、かえって窮屈になっている」
「柔軟性を求めるなら、残業も認めてほしいね。残業代は要らないから」
私は企業の現場に入って目標を絶対達成させるコンサルタントだ。絶対達成とは、どんなに想定外のことがあっても目標の1%も下回ってはならないという発想である。だから、このフレーズが好きな人たちは、だいたいハードワーカーと決まっている。
そのせいもあって、私の周りには、どうしても「ワーカホリック(仕事中毒)」な人が集まってきてしまう。
そういう人たちの言い分は、だいたい同じだ。働き方改革を否定するわけではない。しかし、多様性の時代と言いながら「労働時間を減らせば、みんなハッピー」的な価値観の押し付けに、「ノー」を突きつけたがっている。
■ 残業削減に不満を覚える人はどれぐらいいる?
働き方改革の時代になって、企業が最も力を入れているのが「長時間労働の是正」である。
労働時間を減らすことによって、働く人の健康や、意欲を促進することができることは間違いない。しかし、世の中には必ずしもそうではない人がいるし、それどころか、反対の感覚を持っている人も多い。
冒頭にも記した、いわゆる「働くことが好き」な人たちだ。
正直なところ、「仕事が趣味」「趣味が仕事」という人は、多数派かというと、そうではない。
100人の組織であれば、5~10人ぐらいしかいないと思う。
また、仕事が好きかというと、そうではないが、ある程度キリがつくまでは帰りたくない。中途半端な状態で終わらせたまま翌日や翌週を迎えたくない、という人はどうか。
こういう人は、20%ぐらいはいる気がする。100人いれば20人ほどか。
ということは、少なく見積もっても、組織には残業を減らされても喜ばないどころか、不満を覚える人が20%はいるということだ。
■ 残業で「勝者的感覚」が?
残業とは、読んで字のごとく、定時後も職場に「残って業務を執り行う」ことを指す。
他の人が帰宅しているのに、自分だけが残っていると「取り残された」感覚を覚える人も多いだろう。
しかし自らすすんで「残る」人もいるはずだ。この「残る」という表現、ネガティブにとらえられるケースもいれば、ポジティブなケースもある。
たとえば、「最後まで残る」のは勝者の証だ。甲子園やワールドカップなどのトーナメント戦であれば、わかりやすい。
「決勝まで残った」「ベスト8まで残れなかった」
みたいな表現をする。
「9社は業界を去ったが、3社は残った」
といった言い方もする。
つまり残業が好きな人は、ほとんどの社員が去ったあとの職場に残り、多少なりとも「勝者的感覚」を覚えているのかもしれない。
■ 定時後に生き生きする人たち
1988年から約3年間放映された『やっぱり猫が好き』というコメディドラマがある。このタイトルと同じような感覚で『やっぱり残業が好き』という会社員はいる。
現場に入ってコンサルティングをしていると、定時後になった途端に生き生きしてくる連中を見る。「定時を過ぎた。10分でも20分でも早く仕事を終わらせて帰りたい」と焦って仕事をするのもいるが、「夕方6時を過ぎたので、そろそろエンジンかけるか」的な感じで、腕まくりをする者もいる。
「残業好き」な人の味方をするわけではないが、よく考えると不思議な話である。
働き方の多様化、柔軟化を進める時代なのだから、定時後、人気(ひとけ)がいなくなったオフィスで、気楽に仕事をするのが好き。
休日に、ほとんど誰もいないオフィスに昼から出社し、コンビニで買ったコーヒーとチョコレートを口にしながら、ダラダラと作業をするのが、意外と嫌いじゃないんだよな。
――こういった感覚を、本当に否定していいものか、と思ったりする。他人に強要するのはよくないが、そういう働き方の「嗜好」なのだと言われたら、どう反論すればいいのだろうか。
■「残業仲間」はかけがえのない友人?
喫煙コーナーで一緒にタバコを吸っていると、ふだんは交流のない他部署の人と仲良くなり、優れた意見交換の場になったりすることもある。
これと同じように、いつも遅くまで残業している人と、妙な仲間意識を持つことも多い。
夜9時過ぎにトイレに立つと、少し離れた場所でひとり黙々と仕事をしている人を見つけたとする。すると、ついつい声をかけたくなるものだ。
「今日も遅いですか?」
「ええ。終電には帰るつもりですが。課長はどうなんです?」
「10時には切り上げますよ。土曜日も早いんで」
「あら、土曜日も出勤ですか」
「現場対応が、朝早くからありまして」
「お互い大変ですなあ」
「いやあ、仕事なんて、こんなもんでしょう」
他部署の人と、こんな、ほがらかな会話ができるのも、残業の醍醐味である。
組織の雰囲気を考えるとどうかと思うが、しかし、この「残業好き」な人たちにとっては、この働き方がしっくりくるのである。
■「型」にはめていいのか?
睡眠のパターンによって、人を「朝型」「中間型」「夜型」の3パターンに分けられるとき、世間の社会システムは当然「中間型」に合わせて設計される。
単なる習慣ではなく、利き手が左(左利き)の人がいるように、生まれながらにして「夜型」の体内時計を持った人は、少なからず存在するのだが、ほぼ誰も関心を向けない。
また、普通の人より注意力が散漫になってしまう人はどうすればいいのか。同じ成果を出すには、1.2とか1.3倍の時間がかかる人に、労働時間の制限をして「もっと集中しろ」とプレッシャーをかけていいのか、という疑問もある。
どのような労働時間、どのような労働時間帯が、その人によって適しているのか。「柔軟な働き方」を打ち出すのであれば、先述したマイノリティや価値観、嗜好にも合わせていくべきであり、そうでないと個々の正しいパフォーマンスを引き出せないのも事実である。
ベストな解決策は存在しないが、これからは働く時間帯ぐらいは、個人によって柔軟に設計できるようにしたほうがいいだろう。わかりやすいのはフレックスタイムの導入だ。「残業好き」な人は、残業代目当てではない。ただ、遅い時間までやるのが好きなのだから、職場に残って業務をしているのを「時間外労働」とさせなければいいのだ。
そういう人には昼前から出社してもらい、少しばかり遅い時間まで仕事をしてもらうのもいいかもしれない。太陽が沈んでからでないと生産性の高い仕事ができないという「体内時計」の持ち主もいるのだから。
結局のところ、このように、柔軟性や多様性を意識し、自由な働き方を求めれば求めるほど、企業とは何か、組織とは何か、がわかりづらくなる、ということだ。個人の言い分を聞けば聞くほど組織は力を失う。そして「組織の力」を頼って生きてきた人のバリューは下がりつづけていくだろう。