10月10日からフジテレビ系でテレビアニメ『鬼滅の刃 無限列車編』の放映がはじまった。劇場版の冒頭で煉獄が「うまい!」を16連発し、大量の牛鍋弁当を爆食する。第1話「炎柱・煉獄杏寿郎」では、そのいきさつがわかる序段が、完全新作エピソードとして描かれた。
無限列車に乗る前、煉獄は切り裂き魔に殺された車掌の遺体が発見された駅へ赴き、弁当売りのおばあさんと孫娘の命を救う。お礼にと、1個の牛鍋弁当を手渡す2人に対し、ありがたく受け取って残りの弁当はすべて購入した煉獄。それが、大量の弁当を食べるシーンにつながるというわけだ。
この回は、煉獄が蕎麦をすする場面ではじまり、あんぱん、『家庭洋食割烹法』という料理書が登場するなど、食べ物の描写が多かった。そもそも、どうして弁当は牛鍋なのか、食文化史から考察してみたい。
明治維新で「肉を食べること」が国策になった
鬼滅の刃の時代設定は、大正時代初期の1910年代である。江戸時代まで仏教と神道、両方の理由から禁じられていた肉食が公的に解禁されたのは1872年(明治5)1月だから、日本人が肉を食べられるようになって、まだ40年程度しか経っていないころである。
明治維新で新政府は政治や経済をはじめ、あらゆる文物を西欧から取り入れ、食の西洋化も国策になった。
江戸時代の男性は平均身長155〜157cm、女性は143〜145cmしかなく、西洋人との体格差は激しかった。とりわけ、黒船を率いて来港したアメリカ海軍のペリー提督は190cm以上もある大男。容貌自体が恐れられ、鬼のごとく異形の姿に描かれたペリーの似顔絵が出回ったほどである。北海道・函館に立つ全身像のペリー提督来航記念碑(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
大きけりゃいいというわけではないとしても、頭ひとつ以上小さいのは屈辱的だ。体の小ささは軍事力の弱さにも直結する。西洋列強に追いつくためには食事を改革し、西洋人と同じものを食べて国民の体格と体力を向上させなくては。明治の指導者たちはそう考えた。とはいえ、いきなり西洋料理を一般に普及させるのは無理。まず奨励されたのは、肉を食べることだった。
実は江戸時代の後期から、禁制をかいくぐってイノシシ、シカ、タヌキ、クマなどの野生獣肉を味噌仕立ての鍋で食べさせる店(「ももんじ屋」「けだもの屋」などと呼ばれた)がひそかに存在していた。牛は農耕と運搬に不可欠な使役動物で、殺して食べるなんてとんでもないと大切されていたが、幕末には扱う店が現れた。江戸時代にイノシシの肉は「山くじら」と呼ばれ、薬と称して嗜まれた(提供:アフロ)
牛鍋を食べないと時代に遅れる
江戸(東京)初の牛鍋屋(当時は「牛肉店」と名のった)ができたのは、1867年(慶應3)。はじめは味噌味だったが、すぐに醤油も使うようになった。明治になるや、ももんじの伝統を引き継ぐかたちで牛鍋人気は鰻上りで、たったの10年で東京府内の牛鍋屋は550軒を超えた。
それほどの猛スピードで普及したのは、「牛鍋を食べないと時代に遅れる」という風潮になって、新しもの好きが飛びついたこと。福沢諭吉などの肉食推進のオピニオンリーダーたちが「牛肉は身体を養い、勇気を増して頭の働きをよくする人間食物最高の滋養品」と、口を揃えて宣伝したことも大きかった。「牛肉食わねば開けぬやつ」のフレーズで有名な仮名垣魯文『安愚楽鍋』(1872年、国立国会図書館デジタルコレクションより)
「牛肉は日本人にとって開化の霊薬にして文明の良剤である。精神を養い、胃腸を健やかにし、血の流れを助け、体を肥やしてくれる。この良薬は口に甘く、腹によろしい。即効力があるのは、食べればわかる。病人に用いれば、どんなに頑固な症状でも一鍋で気力が発生し、十鍋食べれば完治するだろう」
これは1874年(明治7)刊行の大ベストセラー、服部誠一著『東京新繁昌記』の一節(原文の漢文から現代語訳)。こんなことをいわれたら、肉に抵抗感があっても試してみたくなるのが人情だ。
このころ並鍋は現在の1400円程度、上鍋でも2000円程度で食べられたので店は庶民でにぎわったが、それでも高くて店に行けない貧民層を相手に、屠牛場でただ同然に入手できる屑肉や腐りかけの肉、内臓類を竹串に刺してグツグツ煮込みながら売る露店も出現した。文明開化の風俗を記録した『東京新繁昌記』。牛肉店を7ページで解説している(1874年、国立国会図書館デジタルコレクションより)
日本最初の外食チェーンは牛鍋屋だった
こうして牛鍋は広い層に浸透していき、大ブームは長期間にわたって続いた。明治中期には東京での味付けは割り下と呼ばれる醬油のタレにほぼ統一され、ザク(牛鍋で肉に添えて煮る野菜などの総称)は長ネギのみか、せいぜい蒟蒻が入るくらいと、シンプルだった。
牛鍋屋チェーンもできた。芝、日本橋、京橋、浅草、六本木、神楽坂など、東京各所に21店舗も展開した「いろは牛肉店」は、日本最初の外食チェーンである。赤・白・黄・緑・青の五色が市松模様になったガラス窓がトレードマークで、繁華街の目抜き通りに立つハイカラな店は、観光客も訪れる東京名物になったという。
牛鍋から派生して、牛丼が誕生したのも明治中期から後期。はじめは牛飯と呼ばれ、カメチャブの別名もあった。古川緑波が「あの、牛(ギュウ)には違いないが、牛肉では絶対にないところの、牛のモツや、皮や(角は流石に用いなかった)その他を、メチャクチャに、辛くコッテリ煮詰めた奴を、飯の上へ、ドロッとブッかけた、あの下司の味を、我は忘れず」と書いている(『ロッパの悲食記』ちくま文庫)。わずか数十年で、牛鍋のB級グルメ版が登場した。恐るべきスピードだ。牛飯、カメチャブを牛丼と呼ぶようになったのは1899年(明治32)の「吉野家」開店以降といわれる(写真:アフロ)
牛鍋弁当は高級ご馳走駅弁
明治初期には人間食物最高の滋養品と崇拝された牛肉が、ごく当たり前の材料になり、それでもやっぱり牛鍋はたまにしか食べられないご馳走料理の筆頭だったのが、鬼滅の刃の舞台となった大正初期の食事情だった。
また、駅弁の発展期だったのが、この時代。駅弁第1号は1885年(明治18)、握り飯2個と沢庵の組み合わせと質素だったが、大正時代になると各地でさまざまな種類が作られるようになり、それぞれがしゃれたデザインのかけ紙で個性をアピールし、上等弁当と並弁当の区別ができた。
無限列車編に出てくる弁当も上等36銭と並20銭の2種類があり、上等が牛鍋弁当。並は残念ながら中身が明かされなかったが、おそらく幕の内風だと思う。
1917年(大正6)のかけそば1杯は4銭だったので、そこから換算すると36銭はおよそ現在の2700円から3600円のあいだ(ただし1500円前後だったという試算もあり)。いずれにせよ、かなりの高級駅弁である。
牛鍋、といっても飯の上に煮込んだ牛肉がのったこれは、正確にいえば牛飯。それでもあえて牛鍋と呼ぶことによって、明治以来の滋養食イメージが付与され、同時にある種のノスタルジーが加わった。なぜなら、1923年(大正12)の関東大震災をきっかけに東京の牛鍋は関西からやって来たすき焼きにとってかわられ、ザクの種類が増え、生卵をつけて食べるのが普通になり、牛鍋という呼び方はすたれてしまったからだ。