【稲田 豊史】テレビはいつから「オワコン」になったのか。『こち亀』に見る昭和~平成のテレビ史

漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(1976~2016年、集英社『週刊少年ジャンプ』で連載)は、40年にわたり日本の文化・世相を、警官である主人公・両津勘吉という“大衆の目線”から定点観測的に捉えた「現代の浮世絵」である──。

コミックス全200巻という偉業はギネス世界記録にも認定されている

そう語るのは、新著『『こち亀』社会論 超一級の文化史料を読み解く』で『こち亀』を社会学的視点から批評したライターの稲田豊史さん。

『こち亀』には、テレビに熱狂し、やがて冷めていった私たちの姿も克明に記録されているという。近年、視聴率の低迷、経費の削減が叫ばれるテレビは、いったいいつから衰退しはじめたのか。稲田さんが『こち亀』を通して分析する。

※以下、△年△号=『週刊少年ジャンプ』掲載号、△巻=ジャンプ・コミックス収録巻として表記。

80年代、テレビは最強無敵だった

『こち亀』連載中の比較的初期、1980年代の日本において、テレビは大衆にとって最強無敵の存在だった。娯楽の王様にして、マスメディアの頂点。テレビマンはギョーカイ人として崇められ、「テレビに出させてもらうこと」は、大衆にとって文字通り夢だった。最もメジャーで、もっとも影響力のある、お茶の間の主役。それがテレビだった。昭和と、平成のはじめまでは。

84年45号「鉄人レース!!の巻」(42巻)と85年46号「鉄人はだれだ!?の巻」(47巻)は、「アイアンマンレース」と呼ばれるアスレチック的な体力レースの番組に両津が出場する話。その仕掛けは超大掛かりで、1回目の賞金は1億円、2回目は10億円だった。当時のテレビ局が――2010年代以降とはまるで異なり――湯水のように制作費を使えた空気感がよく反映されている。フジテレビが「楽しくなければテレビじゃない」を謳っていた80年代の狂騒、ここにあり。

テレビが強大な影響力と権力を持っていただけに、テレビマンは強引で傲慢で横暴。それゆえ大衆はそれに抗う術がない。それを皮肉ったのが、84年43号「下町情緒!?の巻」(42巻)である。ここで登場するテレビクルーは、意外なことに民放局ではない。NHKならぬ“MNK”だ。

同編では、MHKのテレビクルーが下町江戸っ子警官として両津を取材に来る。乗り気の両津だが、クルーは江戸っ子らしさを強調したいがため、両津に「ハッピを着て神輿をかつぎながら出勤」「派出所に着いたらハシゴに乗ってポーズ」「羽織を着て江戸弁で道案内」等、過剰演出を強要する。今で言う「やらせ演出」だ。「海外向けのビデオでもとってるのか? あいつら」と訝しむ両津に対して、中川が「いかにもMHK的ですね」と一言。

その後も無茶な演技指導を経て、撮影は終了。そして待望の放送日、両津は番組を録画しようと、奮発して30万円もする高級ビデオデッキを購入する。なお、84年当時のビデオデッキ普及率はたったの18.7%(日本映像ソフト協会調べ)。両津の気合が垣間見える。当時のテレビが、あらゆる意味で大衆にとっての「夢」だったことは、以下の両津のセリフで明白だ。

両津「天下のMHKの全国ネットで一時間わしが出演するんだぞ! こんな事は一生に一度あるかないかだ。だからその番組をとって孫の代まで自慢するわけよ」

1980年代、小中学生のヒーローである両津をセンターステージで輝かせるには、最強無敵メディアたるテレビに出演させる、あるいは絡ませるのがもっとも近道だった。「テレビに出ること」がそれだけでステータスになりえた、過ぎ去りし時代だ。

「ギョーカイ」という選民性の誕生

テレビ業界を中心とした芸能界を「ギョーカイ」と呼び、ギョーカイの裏側を大衆にチラ見せすることで、華やかな舞台のえげつない裏側事情、テレビマンの変人ぶりや常識はずれぶりに呆れ、笑い、かつ逆説的に「ギョーカイ」に選民的なステータスが付与される流れが、80年代にはあった。広告業界を舞台にした漫画『気まぐれコンセプト』(ホイチョイ・プロダクションズ・作、1981年より「ビッグコミックスピリッツ」で連載開始)、番組スタッフを積極的に顔出しさせた『オレたちひょうきん族』(1981~89年、フジテレビ系)は、それを象徴するコンテンツだ。

85年20号「スターへの道!?の巻」(44巻)では、派出所裏の亀有公園でレポーターの噺家・福々家新平による生中継のロケが行われるが、カメラが回っている時の新平の善人道化ぶりと、回っていない時の毒舌の激しさがギャップとして描かれる。カメラが止まった瞬間、ついさっきまで愛想よくしていた住民に悪態をつく新平を見た両津は、「ビジネスに徹した噺家だな、あいつは……」と呆れながらも、「テレビとは、所詮そういうもの」として受け入れているようにも見える。

『こち亀』は、テレビの薄っぺらさ、いい加減さも鋭く指摘する。85年42号「コレクターの巻」(47巻)では、両津の友人の車コレクターのもとに『私のカーコレクション』という番組の取材クルーが訪れるが、両津はどうせまともな取材じゃないだろうと不信感満載。両津はコントよろしく「脳天気パア子」という架空の女性タレントに扮し、車のことなどまるでわからず「外車でもタイヤがちゃんと4個ついてますね。びっくりしちゃったァ」などとほざく様を悪意たっぷりに演じた。

ワイドショーと「マスコミ=悪」のイメージ

〔PHOTO〕iStock

ワイドショーの過剰報道やメディアスクラムが問題になったのも、80年代だ。86年18号「気分はスター!?の巻」(49巻)では、派出所の同僚である麗子の妹・優が雑誌のストリートスナップで一躍人気者になり、テレビにも出演。その際に両津を「好きな男性のタイプ」と発言してしまったことから、派出所にマスコミが連日押し寄せ、大騒動となる。優が発言した直後に取材陣が派出所に押し寄せる描写は臨場感満載で、マスコミの強引さ、失礼さ、ガラの悪さが十二分に現れていた。

なお『こち亀』は、アイドルが著書を自分で書いていない(ゴーストライターが書いている)ことを、83年35号「マナ板のゴキブリの巻」(36巻)や87年42号「文豪・両津勘吉先生の巻」(57巻)で身も蓋もなく断定している。前者に至っては、アイドルのファンクラブに入会した本田の前で、「地味でまじめなやつが芸能界に入るかよ! 目立ちたがりで自尊心が強いから芸能界でやっていけるんだろ」と言ってアイドル幻想をバッサリ切り捨て、ナイーブな本田を泣かせた。

少年時代に読んだ『こち亀』で、「マスコミ=悪」「芸能界=信用できない」のイメージを固めた団塊ジュニアやポスト団塊ジュニア男性は少なくない。その世代の一部は後に、「2ちゃんねる」等のネット掲示板で、マスコミ報道の“裏”や偽善、権力との癒着構造、芸能界のタブーなどを好んで話題にする、いわゆる「ネット民」のはしりとなる。現在まで連綿と続く彼らの「マスゴミ叩き」の原体験は、もしかすると『こち亀』にあるのかもしれない。

深夜帯と「カルト」全盛の90年代

90年代に入っても、テレビメディア自体の勢いは衰えていなかったが、感度の高い若年層の間には、新しい潮流が存在感を放ち始めていた。深夜番組である。

特に1990年代前半はフジテレビの深夜番組黄金期と呼ばれ、『カノッサの屈辱』『カルトQ』『新しい波』『とぶくすり』『殿様のフェロモン』『Mars TV』『天使のU・B・U・G』等、実験的でクセのあるテイストや過激さを追求する番組で百花繚乱だった。

中でも1991年10月22日から1993年3月28日にフジテレビ系で放送された『カルトQ』は、特定分野における超絶難易度の問題を、その道に通じた選りすぐりのマニアックな人間が回答し、視聴者がそのあまりにも偏った知識量に呆れ、喝采する番組であった。と同時に、「マニアックであること」が「変人」としてディスられるのではなく、一定の社会的価値を帯びる気運のはしりにもなった、と言えるだろう(ただし、この時点ではアニメ等の「オタク」ジャンルを除く)。

92年20号「駄菓子屋カルト王(キング)の巻」(79巻)で登場した深夜番組『ナイト野郎倶楽部』は『カルトQ』的なノリが意識されているが、そもそも『こち亀』は80年代前半より、プラモデルやバイクやモデルガンといった分野で容赦ないマニアックを追求し、アカデミックに解説し、自虐的に呆れ、おもしろがっていた。その意味で『カルトQ』のスタイルは、むしろ『こち亀』の後追いである。

新規性を失ったテレビ

2000年代前半までのテレビ業界は隆盛を極めており、広告費や視聴時間、若者に与える影響や流行の発信源という意味では、まだまだネットに取って代わられていなかった。が、「初物好き」の『こち亀』としては、飛びついて面白がれるほどの新規性を、90年代末以降のテレビからは見出しにくくなっていたようだ。

98年19号「体を張ったアルバイト!!の巻」(110巻)で両津がお笑い芸人スチャラカ鼻子と共に出演するロケ番組は、いたって普通。99年22・23号年号「部長の家族幸せ計画!!の巻」(115巻)で部長がピアノ演奏にチャレンジするのは、『しあわせ家族計画』(1997年4月30日~2000年9月27日放映、TBS系)そのままの内容。01年40号「幻の“神の舌”の巻」(128巻)で中川が地方の郷土料理を賞味するロケや、04年34号「やけの大食い!?の巻」(142巻)で両津が出演するフードバトル番組も、当時よく見かけた番組フォーマットの借用だ。

〔PHOTO〕iStock

2000年代前半には、『爆笑オンエアバトル』(NHK)、『エンタの神様』(日本テレビ)、『M-1グランプリ』(朝日放送)などがお笑いブームを牽引。これを受け、『こち亀』でも漫才フィーチャー回が何度か描かれたが、追認以上の何物でもなかった。

むしろ、ある時期以降の『こち亀』は、テレビ(ギョーカイ)批判に注目したほうが楽しめる。

2000年頃から、皮肉をもって描かれる存在に

02年41号「ダイナマイツコメンテーター!!の巻」(133巻)では、両津がワイドショーのコメンテーターとして起用されるが、両津の「キレ芸」を期待する局側は、暗黙の了解として非喫煙者の両津の前に“投げる用の灰皿”と“ぶちまける用の水”を置く。ディレクターに「あとの判断はお願いします」と言われた両津は番組の意図を察し、「すべて自己責任というわけか/局は知らんわけね」とつぶやく。テレビならではの演出手法にチクリ言った回である。

08年29号「スピンオフの巻」(164巻)はメタ回だ。両津が急病で休みゆえ、派出所の他のメンバーがあの手この手を使って読者の支持率を上げようとする。お色気が効果てきめんだと理解した中川は麗子に入浴させて読者男子(8歳~14歳)の支持率を上げ、さらにマリアも入浴参加させるばかりか、麗子のバストを強調させる。読者支持率はどんどん上がるが、ここで部長が中川を制止して言った。

「あまりに知性に欠けていないか?/これでは視聴率が楽に取れるからとお笑いと雑学クイズ番組ばかりになったテレビ局と同じだぞ!/もっと志を高く持て!」

このエピソードが描かれた2008年時点のテレビは、もはやメディアの王様でも、娯楽の最先端でもなくなっていた。ネットの勢いが加速度的に増し、YouTubeやニコニコ動画が若者層の間に浸透を進め、テレビにはネットでバズった動画ネタをそのまま紹介するだけの情報バラエティが増えつつあったからだ。新しく刺激的なコンテンツはむしろネットの方にあると若者たちは気づきはじめた。部長のこのセリフは、当時のテレビの凋落ぶりをストレートに指摘したものである。

2014年、テレビをオワコン認定した『こち亀』

もはや『こち亀』は、1mmたりともテレビに対してセンス・オブ・ワンダーを抱かなくなっていた。その極めつけが、14年13号「テレビ評論の巻」(193巻)だ。地上波テレビ番組をザッピングした両津は、「どこのテレビも同じだな」とつまらなそうに一言。制作費を削りやすいのはセットを使わないひな壇芸人トーク番組だと本田に説明し、ゆるーい低予算ロケ番組は「見てるほうもダラダラ見てるからな」「力を入れない所がいい!」と一応ポジティブ評価。そして、スマホのカメラで撮影してPCで編集したものをネットに上げる「両津テレビ」を開局する。YouTubeチャンネルのようなものだ。

その番組ではゆるキャラをフィーチャーして、愚にもつかないさまざまな企画を立ち上げるが、大事なのはオチである。最終コマ1つ前で両津は「なんてね!」と言い、実は開局自体が両津の妄想だったことが判明する。両津はゴロ寝の姿勢で本田とダベりながら、「ゆるキャラの芸人化もありえるかもな!」(両津)、「そんな番組も面白いかも!」(本田)と、まったりした会話を交わして終わる。

もはやテレビは、妄想ダベリのネタとして、あってもなくてもいいような、どうでもいいシロモノを垂れ流す箱でしかない。両津が前のめりになって興奮したり、呆れたり、立ち上がって行動を起こすきっかけになったりするようなメディアではなくなったのだ。そんな惨状を、『こち亀』は冷徹に告発する。

かつてスターを生み出し、制作費をジャブジャブ使い、その強大なメディアパワーが恐れられ、出演するだけで親類縁者に誇れることができたテレビの威光は、2014年時点では見る影もない。少なくとも『こち亀』はそう判断した。大衆娯楽の頂点だったテレビは、大衆目線を代弁する『こち亀』によって、本当の意味でオワコン認定されたのだ。

そのことは、15年48号「両津散歩の巻」(198巻)で、両津が内戦地帯を散歩する過激な番組が、もはや地上波ではなく「ネットで生中継」であることからも、よくわかる。ここでは両津が「こんなあぶない番組大丈夫か!?」と的戸(てきと)ディレクターに質問し、的戸は「地上波では無理だ」と答えている。

40年間の連載のなかで『こち亀』はテレビを崇拝し、熱狂し、追認し、飽き、最終的に引導を渡したのである。

※本記事は『『こち亀』社会論 超一級の文化史料を読み解く』の内容の一部を著者自身が抜粋・再構成したもの。

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