満員電車の通勤、全員参加必須の職場飲み会、終電駆け込み残業。テレワークの導入によって、日本の「働き方改革」は一気に進むかと思われた。しかしコロナの感染者数が減ると、瞬く間に通常勤務へ戻される。なぜ日本の企業はこうも「出社」させたがるのか。そこには閉ざされた組織に巣くう、特異な「承認欲求」が大きく関係しているという。同志社大学政策学部教授で、組織論研究の第一人者の太田肇氏による新刊『日本人の承認欲求 テレワークがさらした深層』から抜粋して紹介する。
薄れる管理職の存在感
「上司から以前より頻繁に報告を求められるようになった」
「オンライン・ミーティングがダラダラと際限なく続く」
「勤務時間中は常時ネットをつないでおくように指示された」
「必要がないのに出社を命じられる」
「リモート飲み会の開催を執拗に迫られる」
コロナ禍の蔓延を受けてテレワークの導入が盛んに議論されたころ、企業研修で管理職と非管理職の双方にテレワーク導入の賛否について話し合ってもらった。すると非管理職には賛成派が圧倒的に多かったのに対し、管理職は反対派が多数を占めた。その大半が、仕事に具体的な支障があるからというより、職場の一体感が薄れるとか、まとまりがなくなるといった抽象的な理由である。
上司の立場からすれば、目の前に部下がいないと管理が難しい。まじめに働いているか、間違った仕事をしていないか不安になるのも理解できる。
また大部屋で一緒に仕事をしていると部下どうしの何気ない会話やちょっとした態度の変化も伝わってくる。それによって自分がどれだけ部下に受け入れられているか、自分の指示に対して部下がどう反応するかもわかる。テレワークでは、そうした細かい情報が得られないのである。
それだけではない。テレワークは組織の境界を容易に越える。社外の人とコミュニケーションをとるのは簡単だし、いくらでもネットワークを広げられる。部下は上司の知らない人とつながりを持ち、コントロールできない世界に入っていく。情報のゲートキーパー(門番)としての役割を担ってきた上司の存在感は、それだけ薄れることになる。
テレワークの浸透によって管理職が受ける、もっと大きな影響がある。管理職がうったえる「管理の難しさ」は、従来のような管理のあり方そのものが問われているとも解釈できる。少なくとも屋上屋を架す組織の階層こそ非効率の原因だという見方もできよう。また、そもそも管理職がこれほどたくさん必要なのかという、従来指摘されていた問題がテレワークを機にあらためてあぶり出されようとしている。
そこでテレワークを機に、組織の構造やマネジメントの体制を見直す企業も現れてきた。そうなると当然、管理職そのものの地位も脅かされるわけである。
テレワークがもたらすこうした構造的な変化を具体的にイメージしている管理職は、それほど多くないかもしれない。しかし、少なくとも自分たちにとってテレワークがプラスには働かないことを漠然と感じているようである。
テレワークで「見せびらかし」が困難に
偏差値とブランドだけで大学を選んだ大半の学生たちは就活時期を迎えると、その延長で就職先を探す。会社に入って何をしたいか、その会社が自分に合っているかどうかは二の次、三の次だ。要は有名企業、一流企業の社員というステイタスがほしいのだ。そして、いったんステイタスを手に入れたら、少々待遇が悪化しても、ブラックな労働環境が判明してもなかなか辞めない。
社員にとって有名企業、一流企業ほど共同体としての存在感は大きく、会社に自分を託そうという気持ちになる。
実際に有名企業、一流企業の社員だというだけで承認欲求(尊敬の欲求)が満たされる。例えば取引先や下請会社との間には自ずと上下関係ができ、何かと持ち上げられる。世間からも一流企業の社員は、それにふさわしい能力、経歴、品格を備えていると見てもらえる。
上司や同僚をはじめ周囲の人々、それに会社の社屋やオフィスも彼らのブランドに箔をつける。都心の一等地に鎮座して威容を誇るビルで豪華な装いの応接間に通され、立派な肩書きの人たちに囲まれたら、それだけで相手は気後れするものだ。
ところがテレワークでは、このような恩恵に浴することが難しくなる。実際、物理的に会社から離れて仕事をすると、有形無形のメリットが失われる。自宅からリモートで商談や仕事の打ち合わせをしていると会社の後ろ盾は消え、一対一で勝負しなければならない。
ましてリモートでの商談中に生活臭が漂う自宅の背景が映っていたり、子どもの声やペットの鳴き声が聞こえてきたりすると、「一流企業の社員」というイメージそのものが崩れる。言葉は悪いが「虚仮(こけ)威(おど)し」が利かなくなるのである。
そもそも「偉さ」の見せびらかしは、二重の意味でテレワークと相性が悪い。
第1に、両方のベクトルが逆であること。承認欲求は、より密接な関係ほど満たされやすい。とりわけ見せびらかすには、相手と接する機会が多いほど都合がよい。そのため、人と人が接近する方向に力が働く。
いっぽうテレワークは物理的に離れていることを前提にしている。そのうえコロナ禍のもとで「密」は許されない。要するに「見せびらかしたい」という欲求と、コロナ禍が突きつける要求とは基本的に相容れないのである。
テレワークの世界に「偉い」はなじみにくい
そして第2に、「偉さ」は上下関係のなかで生まれるものだが、テレワークの世界はフラットで対等な関係が基本になる。したがってテレワークの世界に「偉い」という概念はなじみにくいのだ。
テレワークは有名企業、一流企業の社員という組織の後光を失わせるだけではない。組織のなかでは管理職の地位そのものが揺らぎつつある。いわば構造的な変化である。
管理職の仕事のなかで大きな比重を占めているのは情報の仲介や集約、それに仕事の配分などである。たとえばトップからの要求に応じて部下に現場の情報を求めたり、部下の仕事をまとめて上に報告したり、新たな仕事が入ってきたとき部下にそれを割り振ったりする。
しかし電子メールやITツールが発達したいまでは、必要ならトップがいつでも現場に直接聞くことができるし、現場の情報をまとめるのも専用のソフトを使えばよい。そのほうがはるかにスピードは速いし、バイアスも入らない。
また客から担当者に直接仕事が入ってきて、担当者が自分で判断しなければならないケースも増えてきた。その結果、上司が窓口を一本化して部下に仕事を割り振るというスタイルが一般的ではなくなったのだ。
このように仕事の進め方そのものが従来のトップダウン型からボトムアップ型に変化すると、必然的に管理職の存在感は小さくなる。会社によっては部下の間から「上司抜きのほうが仕事はスムーズに進む」という皮肉混じりの声も漏れ聞かれる。
さらに外部とのコミュニケーションやネットワーク形成が容易になり、プロジェクト・ベースの仕事の比重が高まったことにも注目する必要がある。それらの仕事の多くは、社内における特定の部署の枠に収まらない。実際に多くの人が複数の部署にまたがるような仕事をしている。それはとりもなおさず旧来の縦割り型の組織が空洞化しつつあることを意味している。
太田 肇:同志社大学教授