それは、前代未聞の事件だった。
2020年8月8日深夜、長野県上高地にある小梨平キャンプ場には約250のテントが張られていた。
キャンプ場全体が寝静まった頃、東京から友人とハイキングに訪れ、1人用テントで就寝していた50代の女性は、突然テントが強い力で引っ張られるのを感じて、目を覚ました。思わず「助けてください!」と叫ぶと、移動は止まったが、次の瞬間、テントは一瞬で引き裂かれ、黒いものが襲い掛かってきた。 © 文春オンライン ©iStock.com
テントは15mも引きずられていた
“犯人”は体重150kg(推定)のツキノワグマだった。
女性はクマの攻撃が緩んだ隙にトイレに逃げ込み、周囲の人の助けで病院に搬送され、九死に一生を得た(クマの爪により右足に10針縫う軽傷)。クマは襲撃後、立ち去ったと見られるが、テントは元の場所から15mほど引きずられ、中の食料はすべて食べつくされていたという。
関係者によると「上高地での人身事故は、初めてでは」とのことだが、近年、全国でクマによる人身事故は増加の傾向にある。
環境省によると、全国のクマ類(ヒグマ含む)による人身被害は、2018年度は51件、昨年度が140件、今年度は9月までの速報値で既に80件に上り、10月には秋田県の住宅街で、80代の女性がクマに襲われる事件も起きた(後に女性は死亡)。この事件について報じた記事には、県の担当職員の次のような談話が載っている。
「解釈に苦しむ。(クマの食料となる)クリが多い高台から住宅街に下りて来る動機があるのか」
いったい今、クマと人間との間に何が起きているのだろうか。
「食料不足」がクマ出没の原因ではない
クマの大量出没が起きたとき、その理由としてよく指摘されるのは、「食料となるドングリの生るブナ類などが山で不作なのでは」というものだが、40年以上クマの生態を研究している日本ツキノワグマ研究所の米田一彦氏は、“ドングリ不作説”には懐疑的だ。
「ブナ類の不作は大量出没の一因ではありますが、すべてではない。08年にも、ブナの大凶作によるクマの大量出没を森林総研が予測しましたが、結果は平穏でした。(大量出没は)ドングリの不作要因よりも、人間社会の社会構造の変化による影響が大きくなりつつある」
米田氏が指摘する「社会構造の変化」とは、いわゆる“里山”の荒廃である。
「かつては集落に近い里山は、炭焼きや草刈り場として人間の手が頻繁に入っていました。だからクマたちは、その奥にある奥山にしかいませんでした。ところが平成になって里山を管理する人が減り、里山が奥山のように繁茂すると、そこに若いクマやメスのクマ、親子グマ、が居つき始めたのです」(同前)
なぜ若いクマやメスのクマは奥山を出たのか。
「実はクマにとって最大の敵は、クマです。奥山には大きくて強いオスのクマがいますから、それを避けるために、彼らは里山へと逃げてきたのです」(同前)
こうして若いクマやメスのクマが人間社会に守られるような形で里山に住み着き、人間の生活圏と接触するようになった結果、両者の接近遭遇の機会が増えたのである。
また里山への侵入は、クマたちの気質にも変化をもたらしたという。
「里山にはシカやイノシシ、サルなども侵入していますが、クマがこれらを捕食し、肉食の傾向が強まっている。これまでは、たまたま見つけたシカの死体などを食べているとされていましたが、近年、クマがシカを襲撃している様子なども撮影されています」(同前)
人間との接触の機会が増えることで、とくに若いクマは人間を恐れなくなるという。
「里山では若いクマたちが密に棲息して、互いにエサをめぐり、常に葛藤している状態です。だから人間と接触しても、これをライバルのクマと見立てて攻撃、排除に及ぶ可能性が高い。その意味では、“凶暴化”していると言えるかもしれません」(同前)
クマより先にハンターが「絶滅」
原因が構造的なものである以上、今後もクマと人間の接触は増加していくことが考えられるが、何か対策はあるのだろうか。
「今から里山を管理するのは、現実問題として難しいでしょう。可能性があるとすれば、里山と集落の間に電気柵などを設置することで、里山と人間社会を切り離す“ゾーニング”しかないと思います。ただ、これも多額の費用がかかり、簡単ではない」(同前)
また、人里に出没したクマを駆除するにしても、そのハンターが不足しているという。南知床・ヒグマ情報センターでヒグマの捕獲や各種調査に携わっている藤本靖理事長はこう語る。
「現役ハンターの高齢化に加えて、猟銃所持の規制強化も影響し、新たにハンターを増やすことも簡単ではありません。このままでは、クマより先にハンターが絶滅しかねない」
ところが、そういう状態であるにもかかわらず、国や自治体のクマ対策への動きは遅々として進んでいないという。
「ヒグマ対策はヒグマが出没した自治体が単独で行っており、横の連携はほとんどありません。だから現状では“道東のハンターが札幌の有害クマを駆除する”ことさえできません。一方でクマは、そんな人間側の事情にお構いなく、複数の行政区にまたがって活動している。今後は研究機関や各自治体、地元組織が一体となって情報を共有し、連携していかなければ、すべてが手遅れになりかねません」(同前)
クマと人間に残された時間は決して多くはない。
(伊藤 秀倫/文春ムック 文藝春秋オピニオン 2021年の論点100)