岸田文雄首相が1月の経済3団体の新年祝賀会で「インフレ率を超える賃上げをお願いしたい」と要請したことを受け、日本の賃上げ機運が一気に高まりました。2022年12月の消費者物価上昇率が41年ぶりに4%台に達したことも後押しとなったようです。統一地方選をにらみながら政府による企業への賃上げ圧力が高まり、各企業での賃上げ議論も白熱しています。 【画像】人件費やレジパートの時給(計4枚) このような中、イオングループが自社のパート40万人の時給を7%引き上げると発表しました。今年の春闘では5%が一つのラインといわれている中で、7%という数値は大きなインパクトがありました。イオンの賃上げは、国内企業各社にどのような影響を与えるのでしょうか。消費トレンドを追いかけ、小売・サービス業のコンサルティングを30年以上にわたり続けているムガマエ株式会社代表の岩崎剛幸が分析していきます。
「7%」の衝撃
22年3月以降、時給引き上げの対象となるのは、国内のスーパーやドラッグストア、専門店チェーンなどの連結子会社147社で働く約40万人のパート従業員(同社ではコミュニティ社員と呼ぶ)です。同社の国内従業員の8割に当たる人数です。 総務省統計局の労働力調査(2022年)によると、日本全体の就業者数は6723万人で、役員を除く雇用者数は5699万人です。このうち卸・小売業に従事する就業者数は1044万人と全就業者数の16%を占め、役員を除く雇用者数は973万人です。製造業(就業者1044万人、雇用者1006万人)に次いで雇用者数の多い業界です。 日本の非正規雇用者数は2101万人。非正規雇用者割合は36.9%ですが、卸・小売業に限定すると約47%と非正規雇用者割合が半分近くになります。卸・小売業で働く非正規雇用者数は推定457万人。イオンのパート従業員40万人のうち、GMSなどの小売り業態で働いている人が7割程度の28万人と想定すると、日本の卸・小売業の非正規雇用者のうちおよそ6%がイオンのパート従業員となります。その構成比率は大変大きいといえます。 イオングループの店舗は全国各地にあります。普段、買い物でも利用している身近な店舗だから安心して働けます。また、小売業はレジ、接客、品出し、バックヤード業務など業務内容も幅広いので人手が必要です。昔から小売業は労働集約型産業といわれてきました。それだけ大量の人材を雇用してきたのが小売業であり、その代表がイオングループです。イオンは雇用をつくるという点において、日本に大きく貢献している会社ともいえるのです。 従業員数の多さという点でも、イオンのパート時給7%引き上げには非常に大きなインパクトがあります。しかもGMS(イオンリテール)やSM(マックスバリュやミニストップなど)だけでなく、ドラッグストアや金融、デベロッパー、専門店各社で働く全てのパート従業員が対象です。イオングループは関連子会社の事業領域が幅広いこともあり、これからさまざまな業界に影響を与えるのではないでしょうか。 伊藤忠総研の中浜萌副主任研究員は「パート従業員の時給が1%上がれば、国内消費は960億円上がる」と試算しています(出所:日経MJ23年2月18日付「イオン時給7%上げ、吉田社長「売り場で稼ぐ人材作る」)。 イオンのように国内の他の会社でもパート全体の時給を7%上げれば、国内消費は6700億円程度増えることになり、22年度国内民間消費支出(約295兆円)の0.2%を押し上げる効果があります。全ての企業のパート時給が7%上がることはないでしょうが、平均5%賃上げされれば4800億円の押し上げ効果が期待できます。その意味で今回のイオンのパート賃上げは日本の国内消費全体を活気づける一要因になりうるという点で注目すべき数字なのです。
イオンの人件費は約300億円アップ
実は、イオンに先立ってパート・アルバイトの時給を2割引き上げたのはユニクロを展開するファーストリテイリングでした。その後、イオンやオリエンタルランド(7%増)、任天堂(約10%増)など、大手企業が続々とパートやアルバイトの時給引き上げを発表しました。最初の頃は「ユニクロだから時給を引き上げられるのだろう」程度に見ていた企業も、イオンやオリエンタルランドといったように身近で影響力のある企業が続々と賃上げを発表したことで、いよいよ本格的に賃上げに踏み切る必要に迫られています。 今回のパート時給の引き上げによって、イオングループの人件費は年間300億円ほど増えると見られています。金額だけ見るとかなり大きな人件費負担となります。人件費を上げるにあたっては、それだけの付加価値を生み出している企業かどうかが問われます。では、イオングループの連結損益はどうなっているのでしょうか。 イオングループの売り上げ(営業収益)は8兆7000億円あります(21年度)。営業利益は1743億円ありますから、300億円の人件費増も十分に吸収できそうです。では、同社の人件費関連の実数値を見てみましょう。 イオンの営業収益については、21年度が前年比で1.3%増、売上総利益は3.4%増です。一方、人件費は20年度の1兆2335億円から、21年度は1兆2566億円と1.9%の伸びに止まっています。結果的に営業利益は15.8%増となっていますが、今後は営業収益を上げていくことなしに利益の上積みは難しいと思います。イオンとしては「25年度に営業収益11兆円」という中期経営計画がありますから、従業員に報いることで、再度全社に奮起を促し、業績を伸ばしたいという思いが強いのではないでしょうか。その点では収益の伸びに合わせた人件費増は必要な施策です。 この数字をさらに労働分配率の視点で見てみます。これは企業の生み出す付加価値に対する賃金支払い総額の比率です。イオンの労働分配率は18年度から見ると上がってはいます。しかし、21年度には40.4%と、20年度の41.0%から0.6ポイント下がっています。企業側の立場に立てば、40.4%の労働分配率は財務数値基準としては適正かもしれませんが、従業員への投資という点では物足りません。特に今のような時期には分配率を引き上げていかなければ、優秀な人材の確保という点からも企業価値が低いと見なされかねません。この点で、人件費の多くを占めるパート時給の引き上げは同社にとって必須の施策といえるのです。
イオンの稼ぐ力
人件費だけが上がり、売り上げや利益が上がらないとしたら企業は人件費倒れになってしまいます。企業が人件費増に慎重になる最大の理由はここにあります。では、イオンがこのタイミングでパート時給を7%引き上げようと決断できたのはなぜなのでしょうか。 それは同社の収益力を見ると分かります。 イオングループの収益力は企業(業種)によってマチマチというのが実態です。全ての企業がもうかっているわけではありません。 22年3~11月累計の連結決算を見ると、主力のGMS業態、イオンリテールは136億円の赤字です。稼ぎ頭だったアミューズメントのイオンファンタジーも赤字。一方でドラッグストアのウエルシアHDは314億、ディベロッパー事業のイオンモールは324億の黒字です。これまで主力業態として同社を引っ張ってきたGMSやSM(スーパー)が苦戦していて、比較的新しい事業や成長業種が収益を引き上げています。小売り業態は前期からは復調の兆しもありますが、GMSやSMなどは従業員の生産性を高めていかなければ生き残りが難しい状況にあります。それを支える優秀な人材の確保、流出防止をしなければならないという切迫した状況にあるのです。 イオンでは今回の賃上げを「会社の大きなターニングポイントになる」との見方が強く、今回のパートの賃上げを「現場の営業力を上げることで企業価値を上げるための投資」と考えています。この現場力引き上げのポイントとしているのがDXです。営業利益が上がっていないGMSなど、同社のこれまでの主力業態の店舗人件費の3割程度はレジスタッフの人件費です。この店頭での人件費が今後も同じようにかかり続け、売り上げが上がらない状態のままだとしたら、収益改善は難しくなります。 ではイオンの現場を支える食品レジパート時給は現状ではどの程度なのでしょうか。 全国のイオングループのGMSやSM各店舗の食品レジパート求人時給を調べてみました。 各店舗の時給をランダムにピックアップしてまとめてみました。地域や業態によって時給に差はありますが、イオンの食品レジパート平均時給は1066円です。この時給を7%アップさせると1141円になります。実質的な時給引き上げは75円です。 年収の壁問題(106万、130万で社会保険料発生)があるため、一律、年収が増えるような状況になるかは分かりません。しかし、7%アップ後の時給は、特に地方都市の店舗では魅力的に感じられるでしょう。 つまり、同じレジパートの仕事をするならイオンを選ぶという人もでてくる可能性がある時給です。 優秀な人材を採用するという点で、今回の7%アップは同社の人材採用に貢献する可能性があります。 同社の吉田昭夫社長は次のような発言もしています。 「レジ打ちの仕事ではなくて売り場で営業の仕事をしてもらう。トップライン(筆者注:売り上げ)を上げて稼げる体質にする」(出所:日経MJ23年2月18日付「イオン時給7%上げ、吉田社長「売り場で稼ぐ人材作る」)。 実際にイオンの都心店舗ではレジ打ち作業がなくなり始めています。セルフレジやスマホで決済する無人レジの「レジゴー」導入が進んでいるからです。 これまでレジパート従業員が行ってきた単純なレジ業務などはDX化して、生産性を上げて、現場での顧客との接点を増やして売り上げ拡大につなげていくというのがイオンの賃上げの狙いです。 つまり、パート従業員も時給が上がると喜んでいるだけではだめということです。今後はそれ相応の働き方に対応し、稼げる人材に変わっていかなければ活躍し続けることが難しくなるという意味で、従業員にとってのターニングポイントともいえるのです。
中小企業の賃上げは心もとない状況
イオンなどの大手企業のように中小企業では簡単に賃上げはできない――そんな声も聞こえてきます。 全国の中小企業2300社を対象に商工中金が22年11~12月に調査した「中小企業の賃上げの動向」によれば、定例給与・時給の平均引き上げ率は、21年は1.31%でしたが、22年には1.95%、23年も1.98%というように、約2%程度の賃上げになりそうです。 大手が最低でも5%の賃上げを打ち出しているのに対し、世の中の大多数を占める中小企業の賃上げ熱はまだ低い状況です。実際にコロナ融資の返済が始まり資金繰りに苦労する企業や、思うようにコロナ前の業績に戻っていない地方の中小企業が多いのが現実だからです。 だからといって中小企業の賃上げが2%程度になれば、大企業との賃金格差がさらに広がるだけでなく、物価上昇ペースを下回ることになり、実質的な賃下げと見られかねません。 企業としては、売り上げを上げるためにも、思い切った賃上げを実施する。もしくは、目標とする数字を達成したら従業員への還元を約束するなどして、人材への投資を本格化させる必要があります。 人的資本経営元年でもある23年。賃上げが全てではありませんが、いかに人への投資ができるかどうかが魅力的な企業づくりのカギとなります。 人材採用がますます困難となる23年は、会社にとっても従業員にとってもプラスとなるような人的資本投資を経営者には考えてほしいと思います。賃上げは、中でも一番分かりやすい人的投資なのです。 (岩崎 剛幸)