家計の消費支出に占める食費の割合を「エンゲル係数」という。エンゲル係数は豊かになるほど下がり、貧しくなるほど上がるという法則がある。ところが日本では2005年の22.9%が最も低く、それ以降、急上昇し、直近の2018年は25.7%となっている。日本は最近急に貧しくなっているのだろうか。統計データ分析家の本川裕氏は「携帯電話の普及などが影響している」という――。
本稿は、本川裕『なぜ、男性は突然、草食化したのか』(日本経済新聞出版社)の一部を再編集したものです。
■注目を集めるエンゲル係数の反転・上昇
家計の余裕に反比例すると一般には理解されている、家計の消費支出に占める食費の割合=エンゲル係数が最近になって反転・上昇している点が注目されている。まず、最近の動きをエンゲル係数の長期的なトレンドの中に位置づけてみよう。図表1には明治初めから現在に至るまでのエンゲル係数の長期推移を示した。
エンゲル係数の長期推移を見ると、明治期以降、大正の1910年代まではほぼ65%前後で推移していたが、大正から昭和戦前期にかけて50%程度までに低下した。戦前においても、大正時代以降になると食べ物以外の消費生活のための支出が増加し、生活の向上が実現していたことがうかがえるのである。
それでも、現在、インド、スリランカのエンゲル係数が3割前後であるなど途上国でも多くの国で5割を切っているのと比較すると、戦前期の日本はこれをはるかに上回っており、この時代の日本人はやはりギリギリの生活を送っていたと考えねばならない。
その後、第2次世界大戦中や終戦直後の食糧難時代には、エンゲル係数は再び60%前後に上昇したが、経済復興の過程で1950年代には戦前水準までに低下した。1人当たりGNP(国民総生産)が55年に戦前の水準を超えたため、56年の「経済白書」の結びで「もはや戦後ではない」と記述されたことがよく知られているが、この点はエンゲル係数の動きからも確認される。さらに高度成長期、安定成長期における著しい生活向上をへて、現在の20%台の水準へと急速に低下した。
家計の消費支出に占める食費の割合であるエンゲル係数は、19世紀ドイツの統計学者、エルンスト・エンゲルが見いだした「食費の割合は所得水準が高まるに従って低下する傾向がある」という法則を示したもので、時系列でも同時点の階層間でも当てはまると考えられている。
エンゲル係数の長期的な低下傾向が経済発展に伴う所得(生活)水準の上昇によるものだという理解は大きくは間違っていないだろう。戦時中の異常期を除いて考えると、戦前・戦後を通じた長期的な経済発展に対応してほぼロジスティック曲線に沿ったエンゲル係数の低下が認められよう。
ところが、最近の日本のエンゲル係数は2005年の22.9%を底に反転し、15~16年には急上昇して25.8%にまで達し、17年も高い水準で推移するという印象的な動きとなっている。戦後の一貫した低下傾向が明確に逆転したため、やや驚きをもって受け止められているのだ。こうした最近のエンゲル係数の上昇については、次のような要因が考えられている。
〈短期的要因として〉
・収入の伸び悩み・減少(収入が減っても食費は減らせない)
・消費税アップによる生活水準低下(可処分所得減少の影響)
・円安効果(輸入が多い食料品の相対価格の上昇の影響)
〈長期傾向だが最近強まった要因として〉
・共稼ぎ夫婦の増加(惣菜・弁当などの中食や外食の増加)
・高齢者世帯の増加(教育費やマイカー費などが減る一方で食費は減らせない)
・1人世帯の増加(1人分の食料購入は割高)
・安全志向・グルメ志向(高額につく安全食品・健康食品あるいは美食へのこだわり)
エンゲルの法則からは、収入が減り税・保険料が増えることによって生じる実質的な可処分所得の低下がエンゲル係数の上昇に結びついたとする見方が説得的である。最近になってアベノミクスの負の側面が顕在化しているという見方と結びつける理解がここから生まれる。
■エンゲル係数のナゾめいた動き
しかし、所得水準、あるいは生活水準の低下は今に始まったことなのだろうか。
バブル崩壊以降、生活は徐々に苦しくなってきたのではないか。そうであるなら今になってエンゲル係数が上昇しているのはむしろナゾとなる。この点を明らかにするため、時系列的な生活水準とエンゲル係数の動きについて相関図を描いて確かめてみよう。
家計の実質的な生活水準の動きを測るために、家計調査を実施している総務省統計局によって「消費水準指数」が公表されている。これは、家計調査による消費支出額をもとに物価の変動による影響を取り除き、また、世帯員数の変化が実質的な生活水準に大きな影響を与えるので(たとえば、2人世帯でも3人世帯でも冷蔵庫は1台必要であるため1人当たりの消費額が同じでも人数が少ないと生活は苦しい)、世帯員数の構成が不変として計算した指標である(さらに世帯主の年齢についても不変として計算しているが、世帯員数の構成の影響のほうが圧倒的に大きい)。
図表2に消費水準指数をX軸、エンゲル係数をY軸にとって、1981年から2017年にかけての毎年の推移を示した。
生活水準が低下し始めた(X軸方向の右移動から左移動に転じた)のはバブル崩壊の影響が出始めた1993年以後の傾向だが、2004~05年まではエンゲル係数が上がらず、むしろ、下がり続けるというエンゲルの法則に反する動きを示した。その後、やっとエンゲルの法則に沿った動きに復帰し、生活水準の低下に応じてエンゲル係数が上がり始めたのである。
1981~93年の期間、および2004年以降には、消費水準指数とエンゲル係数とが右下がりの傾向線に沿った動きとなっていることから、エンゲルの法則はおおむね当てはまっており、その間の93~04年のほぼ10年間に約3%ポイントのエンゲル係数の下方シフト(断層)が生じたことが分かる。
■ネット、携帯電話のために食費をどんどん削る日本人
いったいこの時期に何が起こったのであろうか。
じつは、この時期は、ネット社会への転換をもたらした情報通信革命が家計に大きな影響を与えた時期なのである。参考図にパソコン・携帯電話の普及率推移、家計における通信費割合の推移を掲げておいた。
1990年代後半から2000年代前半にかけての時期は情報通信機器が家庭に急速に浸透し、家計支出に占める通信費割合が2%から4%へと一気に2倍となったという非常に大きな変化が生じたのである。通信費などはその後もじりじり上昇しているが、なお4%台を継続しており、一時期ほどの上昇スピードではない。
この時期、生活が苦しくなっていたにもかかわらず、それまではゼロであったパソコン、インターネット、携帯電話といった新しい情報通信技術に要する経費が急に膨らんだため、食費を必要以上に切り詰めざるをえず、その結果、エンゲル係数はむしろ下がっていたと考えられる。
例えば、ある世帯の収入は月30万円で、支出額も同じだとする。総支出のうち、食費は月7万円。よって、エンゲル係数は7÷30=0.23(23%)となる。この家庭においてインターネットやスマートフォンなどを導入することになり、新規支出が2万円かかるようになった。家計を赤字にしないために、他の費目からなんとか2万円を捻出しようと、家族の小遣いを計1万円分減額するとともに、牛肉を豚肉に代えるなど節約して食費を1万円減らして月6万円にした。すると、6÷30=0.2(20%)。食費を切り詰め急場をしのぐことで、エンゲル係数は3%分低下したことになるのだ。
■バブル経済や円安の時期にもエンゲル係数が上昇した
最近は、変化が一段落し、こうした新技術への家計支出が一時期ほど大きく膨らむ情勢ではないので、エンゲルの法則が再び働くようになり、生活水準の低下に応じてエンゲル係数が上昇しているのではないかと考えられる。
すなわち、パソコンや携帯電話が普及した時期に、本来上がるべきエンゲル係数がむしろ下がっていたので、それが生活水準の上昇が継続しているという錯覚を生じさせることになり、その結果、最近のエンゲル係数の上昇が突然生じた現象に見えることになったと捉えることができる。
なお、傾向線に沿った動きを示している時期でも、傾向線からの乖離が目立っていたケースが、2度認められる。
1つは、1980年代後半から90年代前半にかけての時期にエンゲル係数が傾向線よりやや上向いていたケースである。これは外食費が拡大した時期に当たっており、バブル経済の影響だと考えられる。
もう1つは、2015年~17年にそれまでの傾向と比べてエンゲル係数の上昇幅が大きかったケースであり、これは円安の進行による食料品価格の相対的上昇が影響している可能性が高いといえる。
■エンゲル係数の上昇は日本だけの特異な事情ではない
日本のこうしたエンゲル係数の動きは、主要国と比較すると、どのような特徴が浮かび上がるのだろう。エンゲル係数の上昇は日本だけに見られる傾向なのだろうか?
じつは日本以外では家計調査は日本ほど本格的に行われていない。行われているとしても基準が同一だとは限らないので、諸外国の家計調査を使うわけにはいかない。そこで、作成基準が統一されているGDP統計(SNA)の国内最終家計消費の内訳から算出したエンゲル係数で各国の動きを比較してみよう(図表3参照)。
エンゲル係数の高さに関する各国の順位は、ほとんど変わっていない。かねてより米国が特別低く、日本、イタリア、フランスで高くなっている。スウェーデン、英国、ドイツは両者の中間のレベルである。こうしたレベルの差は生活水準の差というより、食品関連の価格水準が高いか安いかという点や、「食」に対してどれだけ出費を惜しまないかという点が影響していると考えられる。
米国は食費が安いし、食へのこだわりもそう大きくないのでエンゲル係数が低いのだと考えられる。1日の食事時間を国際比較すると、米国74分に対して、フランス、日本、イタリアは、それぞれ135分、117分、114分と長い。ドイツ、英国はその中間の105分、85分だ(OECD, Society at a Glance, 2009)。イタリア、日本、フランスのエンゲル係数が高いのはグルメ国だからという側面が無視できないだろう。
■IT革命が定着し、世界各国のエンゲル係数も反転上昇
さて、作図目的に沿って時系列的な動きに着目すると、欧米主要国では、反転の時期は異なるが、日本と同様に下がり続けていたエンゲル係数が、近年反転上昇に転じている(ただし米国は下げ止まったが反転はしておらず、英国は直近で再度低下している)。
日本で情報通信革命が通信費を上昇させた1995~2005年の時期には、生活水準が上昇していなかったにもかかわらず、エンゲルの法則に反してエンゲル係数が低下した。そして世界的に情報通信革命が進展していたこの時期に、米国、英国を含めて、すべての国でエンゲル係数が下がり続けていた状況が認められる。
要するに、日本と同様に情報通信革命が大きく進行した時期にエンゲル係数が下方シフトし、それが落ち着いてからエンゲル係数が上昇するというのが、おおむね先進国共通の動きだと理解できるのだ。
なお、2009年には日本、ドイツ、英国以外の国でエンゲル係数が短期的に跳ね上がっているが、これは、08年の穀物価格急騰の影響と見られる。エンゲル係数の動きは食料品価格の動向によって左右されるのである。その時期に日本のエンゲル係数に大きな変化が見られなかったのは円高傾向が相殺要因として働いていたためだろう。
■アベノミクスの負の側面がエンゲル係数を上げさせたわけではない
また、他国と異なる最近の日本の特異な動きからは、2015~16年の円安が日本のエンゲル係数を特段に上昇させている印象が得られる。毎日新聞(2017年2月18日)によれば「総務省が14~16年の上昇要因を分析したところ、上昇幅1.8ポイントのうち、円安進行などを受けた食料品の価格上昇が半分の0.9ポイント分を占めた」という。
エンゲル係数の動きを国際比較して見て分かることは、エンゲル係数のナゾの動きを、家計の苦しさをもたらしたアベノミクスの負の側面の表れだと安直に判断すべきではないということだ。
報道機関や有識者は、それが日本だけの動きなのかをまず確かめてみるべきだったのではないか。エンゲル係数の反転・上昇の動きが主要先進国で共通だとしたら、その理由は、やはり先進国で共通の社会経済の変化に求めなければならない。
統計データの背後にある事情を理解するためには、国際的な視野が不可欠であることを肝に銘じておこう。それが統計探偵の第一歩になる。
(統計探偵/統計データ分析家 本川 裕 写真=iStock.com)