新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)は、この先何年も(ひょっとするとさらにもっと長期間にわたって)付き合わざるを得ない「日常風景」になりそうです。一時期は、「コロナが終わったら何がしたい」といった無邪気な声も聞かれましたが、「コロナありきの社会」へと考えをあらためなければならなくなりました。これを「悪夢」ととらえるのは簡単ですが、満員電車の通勤や、意味もなく続けていた会議の日々が「天国」だったのか、冷静に考え直す動きもあらわれはじめています。人間関係を「見切る」「差し引く」きっかけとしてのコロナについて考えます。(評論家、著述家・真鍋厚) 【画像】コロナ禍で話題になったドラえもんの新聞広告の意味「未来なんてどんどん変わるから」
リトマス試験紙だったコロナ禍
コロナ禍によって暴かれたのは、良くも悪くもそれまでの人間関係でした。特に緊急事態宣言以降、わたしたちは身近な人々の言動に激しい怒りを感じたり、呆れ返ったりすることが明らかに増えたはずです。あえて辛辣な例え方をすれば、動物を用いた悪趣味な心理テストのように、家族や職場などの人間関係というものが、特定のストレスによってどう変化を遂げるかが試されたわけです。 テレワークに移行した途端、職場の上司や同僚と直接話す機会が減り、ひどく不安になった人々、驚くほど快適になった人々。家で過ごすことが多くなり家族との絆が深まった人々、かえって家族とのいさかいが起こりDVや離婚に至った人々。困った時に周りに相談したり助けを求められる仲間がいることに気付いた人々、いないことに気付いて愕然としてしまった人々……枚挙に暇がありません。 いわばコロナ禍は「人間性を判定するリトマス試験紙」であったのです。コロナ以前であれば誤魔化すことができていた「不都合な真実」が次々と露見していきました。
平常時から薄々、感じていたこと
「感染症から社員を守る気がない経営者」「部下を監視することに熱中して仕事をしていない上司」「子育てや家事に協力的ではないパートナー」等々、恐らく大部分の人々は平常時から薄々感じていたことばかりだったのではないでしょうか。 しかし、それを軌道修正するにはあまりにも時間と労力を要することを理由に、問題と真正面から向き合うことをせずに先送りにしていたのです。 けれども、緊急事態宣言が発令され、感染者の増加と有名人の訃報、重症化のリスクと死の恐怖が様々なメディアによって拡散され、政府の無策と失態による経済的な被害が着実に拡大していく中で、誰も彼もが多かれ少なかれ「人間性の危機」に対処する必要に迫られました。
突き刺さるフランクルの「箴言」
コロナ禍によってテレワークなどの働き方が加速したといわれていますが、人間関係でも「見切る」「差し引く」考え方が加速したことは否めません。過去を振り返ってみると、このような局面は3.11でも生じていました。 ナチスの強制収容所の生き証人で、実存分析(ロゴセラピー)の創始者であるV・E・フランクルは、「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている」と述べました。 第二次世界大戦が終わった直後のニヒリズムや悲観主義に対する返答だったのですが、現在のコロナ禍ではなおさら痛いほど突き刺さってくる教訓とも言うべき箴言ではないでしょうか。 フランクルは、強制収容所での有名なエピソードを取り上げます。ナチスの親衛隊員である収容所の所長が、密かに自分のポケットマネーで囚人のために薬を購入していました。他方、同じ収容所では、最年長者の囚人が、囚人仲間を「ぞっとするような仕方で」虐待していたのです。 フランクルは、この経験を踏まえ「最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか『だけ』だった」と主張しました。 「人生も、健康も、幸福も……すべてが疑わしいものになり」「すべてが、裸の実存に還元され」るのだと。(以上、V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)。
ますます試されていく「人間性」
この真理は現代においてもまったく変わるところがありません。わたしたちはコロナ禍が始まった時も、これからもますます「人間性」を試されるのです。 そのような普遍的な視点から眺めれば、ウィズコロナ、アフターコロナの時代は案外悪いものではありません。化けの皮が剥がれやすくなったからです。 近年、人の尊厳を保つのに必要とされる信頼関係やコミュニティといったソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の重要性に関心が注がれています。コロナ禍がそれらの再考を迫る強力な起爆剤になっている以上、既存の帰属先や関係性を見直す人々が多くなっていくことが予想されます。 分かりやすく言えば、「人間性を疑う身近な人々と今後どう関わっていくのか」ということであり、抽象的な表現をすれば、フランクルの「裸の実存」に基づいて改めて自分自身の生き方が問われるのです。 「以前のような働き方には戻りたくない」「こんなパートナーとは付き合いきれない」などといった感慨は、「何を守るために、誰と、どう生きるのか」という大きな問題の枝葉でしかありません。
もともと「遊動者」だった私たち
人類学者の西田正規は、「定住革命」について「逃げられる社会から逃げられない社会へ」というフレーズで表現しました。 その昔、人類は「定住者」ではなく住む場所を自由に選ぶ「遊動者」として生きていました。それが劇的に変化したのはおよそ1万年前といわれています。 「ある時から人類の社会は、逃げる社会から逃げない社会へ、あるいは、逃げられる社会から逃げられない社会へと、生き方の基本戦略を大きく変えた」のです。 <霊長類が長い進化史を通じて採用してきた遊動生活の伝統は、その一員として生まれた人類にもまた長く長く受け継がれた。定住することもなく、大きな社会を作ることもなく、稀薄な人口密度を維持し、したがって環境を荒廃することも汚物にまみれることもなく、人類は出現してから数百万年を生き続けてきたのである。 だが、今、私たちが生きる社会は、膨大な人口をかかえながら、不快であったとしても、危険が近づいたとしても、頑として逃げ出そうとはしないかのようである。生きるためにこそ逃げる遊動者の知恵は、この社会ではもはや顧みられることもない。――西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫>
自分を不幸にする基本戦略
地震や噴火、津波や大洪水といった自然災害を、「遊動者」は身軽に移動することでかわす術を心得ていましたが、わたしたちは「定住」という言葉が示す通りあくまで留まろうとしてしまいます。 これは物理的にというより心理的にです。住居というストックが象徴的ですが、所有という概念に根差した固定的な社会があるからです。 関係性に対するスタンスもこの傾向に半ば惰性で引きずられ、非常時においてもこの「基本戦略」を忠実に遂行しようとして不幸になっているのです。 「不快であったとしても、危険が近づいたとしても」、「人間性を疑う」カルチャーが支配する関係性を守ることを選んでしまうのです。損して得を取れ――自分らしい生き方を犠牲にしたり、ストレスを感じる相手と過ごさざる得ない中で尊厳は損なわれるが、他者の目から見ればまんざらではない生活を過ごす見返りは得られる――というわけです。
「今の世界」を愛せるきっかけに
当たり前ですが、わたしたちは気まぐれに「遊動者」へと先祖返りするようなことはできません。そのような社会はほとんど存在しないからです。 とはいえ、「遊動者の知恵」から学ぶことはできます。 今日的な「遊動者の知恵」とは、「裸の実存」を物事の判断の中核に据えて、尊厳が損なわれかねない場所から、実りのない関係性から、素早く距離を取ったり、軽くいなしてしまうフットワークのことです。冒険を恐れずに新しい仕事や新しいつながりを作ることだってそうです。 「わたしたちはもう元の世界には戻れない」――SF小説の台詞のように聞こえるかもしれませんが、これがウィズコロナののっぴきならない現実なのです。 ならば、わたしたちはむしろ、「元の世界」に満ち満ちていた不正や欺瞞が自ずから露呈する「今の世界」こそ愛さなければならないのではないでしょうか。