島民と10年たった今も交流
東日本大震災の「トモダチ作戦」で、米軍が救援に入った被災地の一つが宮城県気仙沼市の離島・大島だ。
約2週間にわたって孤立していた島に上陸したのは、水陸両用作戦を得意とする海兵隊だったが、それまでには曲折があった。部隊を指揮したアンドリュー・マクマニス元大佐(59)が米国で取材に応じ、当時を振り返った。(ワシントン支局 蒔田一彦、国際部 川上大介)
日本へ
2011年3月11日の震災発生当時、マクマニス氏が乗艦する米海軍の強襲揚陸艦エセックスは演習を終えてマレーシアに寄港中だった。被害は本州の太平洋側に集中していたが、指示された行き先は、日本海側だった。約1週間後、秋田沖に到着した。
「太平洋側に向かうべきだと何度も上官に伝えたが、いつも答えは『ノー』だった。日本海側の被害はそれほど大きくなく、我々の助けは必要とされていないと感じた。ヘリコプターで太平洋側に向かうことも検討したが、雪が舞う悪天候の中、標高の高い山を越えるのは難しかった」
命令
その後、マクマニス氏の部隊は青森県八戸市沖に向かい、救援物資の配布などを行った。
<停電が続く大島に電源車を輸送せよ>。そんな活動命令を受け、宮城入りの調整を行ったのは、震災発生から13日目だった。
「車両100台、航空機30機、隊員2000人。能力を十分生かせず、いら立ちもあった。海兵隊でなければできない任務がようやく与えられた。『よしやろう』と、士気が高まった」
三陸沖では、家の屋根や冷蔵庫などが洋上に浮遊していた。子どもの靴を見つけ、胸を痛める隊員もいた。
上陸
震災から17日目、3月27日に先遣隊が大島に上陸した。本土にかかる橋はまだなく、津波で港もフェリーも破壊され、島民は孤立。断水も続き、大勢の人が体育館などで避難生活を送っていた。
海兵隊は電源車や給水車、支援物資などを上陸用舟艇で輸送した。4月に入って主力隊が続き、救援物資の配布、仮設シャワーの設置、揚陸した重機での道路整備、がれきの撤去などを行った。
「多くの人が亡くなり、町は破壊された。にもかかわらず、島の人たちは昼時になると、食べ物を差し入れてくれた。我々は島で素晴らしい人たちに出会った」
交流
活動は4月7日に終了した。引き揚げる際、大勢の島民が岸壁に集まった。子どもたちは手作りした星条旗を振って見送った。掲げられた横断幕にはこうあった。「サンキュー ベリー ベリー マッチ」
マクマニス氏は2014年に退役し、今はバージニア州の政策研究機関で研究員を務めている。
「大島でもらった星条旗は額に入れて大切にしている。10年たった今もSNSで交流を続けている人もいる。30年の海兵隊生活で意義のある活動をしたかと問われれば、二つあると答える。一つは(米同時テロ後の)アフガニスタンでの任務。もう一つはトモダチ作戦だ」