そもそも「ファクト・フルネス」って?
みなさんは、今年、発行部数累計100万部を突破した『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(ハンス・ロスリングほか著、日経BP、2019年)をご存じでしょうか。「ファクト・フルネス」とは、著者による造語で、「事実に基づいて世界を正しく見よう」という意味が込められています。
先進国の人間は、事実に基づく世界の見方ができていないのではないか——そう気づいた著者は、誤った認識が生じる原因として「世界をありのままに見せてくれない10の本能」を提示します。たとえば、
・「ネガティブ本能」・・・人は物事のポジティブな面より、ネガティブな面に注目しやすい習性がある。そのため、世界はどんどん悪くなっていると思い込んでしまう。
・「恐怖本能」・・・リスクとは危険の大きさと頻度の掛け合わせだが、人は小さなリスクでも理不尽に恐がる習性がある。そのため、危険でないことも恐ろしいと思い込んでしまう。
その他、誰かを責めれば物事は解決すると思い込む「犯人探し本能」、すべてはあらかじめ決まっていると思い込む「宿命本能」、いますぐ手を打たないと大変なことになると思い込む「焦り本能」など——
このように単純化して書き出してしまうと、「いや、自分はこんな思い込みはしない!」と否定したくなる方もいることでしょう。でも、「10の本能」は人間が誰しも持っている「本能」なのです。がんばって消せるものでもないのです。大切なことは、自分にも他人にもそうした思い込みがあると気づくことです。
「10の本能」の解説は、さまざまな情報に接する私たちの心の動揺、なんとなく感じる不安、抱いてしまうモヤモヤを解きほぐしてくれます。本書の人気は、裏返せば、私たちはさまざまな情報に迷い、疑い、あるいは振り回されている、と思い当たることがある、ということではないでしょうか。
いざ情報を発信する——このとき、発信する側にも、受信する側にも、思い込み・バイアスがあることを忘れてはなりません。
ファクト・チェックは「急がば回れ」
『FACTFULNESS』がヒットして、「ファクト・フルネス」を特集する雑誌も散見されました。実は、私にも取材依頼がありました。提案されたタイトルは、「ガセを徹底排除! 正しい“ソース”選び(仮)」——取材は引き受けましたが、タイトルは変更してもらいました。なぜなら、「正しい“ソース”を選べばOK」という安易な話はあり得ないからです。確度の高い情報源によって確認することは不可欠ですが、それだけでは不十分な場合も少なくありません。むしろ、「正しい“ソース”を選べば、ファクトが得られる」というような短絡(=思い込み・バイアス)こそ、ファクト・チェックにおいては大敵です。
ファクト・チェック(裏取り)は、どうしても手間がかかるものです。実際、テレビのリサーチャーがどのようにチェックしているのか、クイズ番組を例に説明しましょう。
スタジオ収録に先立って、出題するクイズについて裏取りします。たとえば、以下の4択クイズの場合、 問題文:春告魚(ハルツゲウオ)と呼ばれる春先が旬の魚はどれ?
選択肢:Aサワラ、Bキビナゴ、Cマダラ、Dニシン
正 解:Aサワラ
文字通り「一言一句」確認します。問題文にある「春告魚」「春先」「旬」を国語辞典で引いて、それぞれの定義を確認します。選択肢に画像が使用されていれば、名称と一致しているか、図鑑などで確認します。小学生の宿題みたいな作業ですが、ひとつずつ怠らず確認することによって、先入観・思い込みによる見落としを防ぐことができます。
「春告魚」を国語辞典で引くと、「ニシンの異名」とあります。「春告魚」について調べてみると、ニシンは春になると北海道の海に大挙してくることから「春告魚」と呼ばれるようになった。そして、そのように春の到来を感じさせる魚は日本各地にいて、東海・関東地方ではメバル、関西ではサワラ、瀬戸内海ではイカナゴが「春告魚」と呼ばれている——こうして、このクイズは、問題文に対して正解となる選択肢が「ニシン」「サワラ」の2つあるという不都合が判明しました。
仮に「春告魚」は「ニシンの異名」と知っていて、すぐに不都合に気づいたとしても、リサーチャーなら資料を使って確認します。既に知っていることだからと確認を怠って、見落としや取りこぼしをすることの怖さを知っているからです。実際、見落とされたひとつの些細な誤りが、思いもよらない大きなダメージを生み出すという事態は、珍しいことではなく、起こることなのです。
裏取りで判明した2つの「ファクト」
クイズやナレーションなどをチェックするときだけでなく、情報を収集するときにも、国語辞典と百科事典はよく引きます。予備の知識があったとしても、改めて定義や概況をおさらいすることは、情報を精査する際、とても役に立ちます。今はインターネットで「日本国語大辞典」や「ブリタニカ国際大百科事典」「日本大百科全書」、デジタル版の「日本人名大辞典」など、さまざまな辞書・事典を引くことができますから、活用されることをおススメします。
とはいえ、当然ながら、辞書・事典で確認できる範囲は限られます。たとえば、以下のクイズの場合、 問題文:ヤンキースが、野球界ではじめてユニフォームにした工夫は?
正 解:背番号
野球界ではじめて背番号を採用したチームはヤンキースで間違いないか——百科事典では埒が明きません。どうするか?——私は確認に役立ちそうな資料を探しました。このときは、国会図書館で『日米比較 プロ野球 背番号を楽しむ小事典』(出野哲也著、彩流社、2010年)を見つけました(なお、必要な情報を手に入れる資料の探し方は、次回お話ししますね)。
見つけた資料で、ホーム/ロード(アウェー)の区別なく、年間を通じて背番号をつけた最初のチームがニューヨーク・ヤンキースであることを確認しました。また、次の事実を知りました——同年、クリーヴランド・インディアンスという球団もホームに限って背番号を採用していて、メジャーリーグ史上初めて背番号をつけて試合をしたのは、ヤンキースではなく、インディアンスだったのです。
クイズの問題文・正解に不都合はありません。ですが、番組で「ヤンキースが野球界ではじめてユニフォームに施した工夫は背番号である」と紹介することによって、「メジャーリーグ史上初めて背番号をつけて試合をしたのはヤンキースだ」というミスリードが生じないよう、解説が補足されることになりました。
人は「思い込み・バイアス」からは逃れられない
私たちの思い込み・バイアスを生み出す「10の本能」は、がんばって消し去れるものではありません。それゆえ、裏取りを怠れば、事実ではない・誤った情報を発信してしまう事故は起こり得るのです。悪意はなくとも、フェイクやミスリードを発信すれば、発信元は責任を問われますし、イメージや信頼を損なうことにもなりかねません。
裏取りは、どうしても手間がかかりますが、しっかりすればファクトはフルネス!で、フェイクやミスリードを回避できるのですから、手間をかける甲斐があるというものです。ただ、ファクト・チェック(裏取り)では対処しきれない、意図しないハレーションが、今日のマス・コミュニケーションでは起こり得ます——いわゆる「炎上」です。