事実を直視しない「韓国人の歴史観」には付き合いきれない

先ごろ亡くなった韓国の全斗煥元大統領(在任1980~88年)に対し韓国ではほぼ全否定の評価で非難、罵倒があふれた。「光州虐殺」「軍事独裁」「民主化弾圧」……暗黒イメージばかりが強調された。しかし当時、現地で目撃し、体験した実際の全斗煥時代は意外に明るかった。それまで18年間続いた勤倹節約・質実剛健・贅沢は敵——という朴正煕政権が終わり、夜間外出禁止令解除など人びとの暮らしの規制、統制が一気に解除されたからだ。

 実は韓国にとって全斗煥時代は現在の“豊かな韓国”のスタートを切った時代だった。わずか40年ほど前のことなのに、現在の韓国人の記憶からはそれが抜け落ちている。政治過剰に堕した“韓国人の歴史観”をただす意味で、明るかった全斗煥時代の語られざる実相をあらためて紹介する。

「なぜ明るかったのか?」を紐解く全斗煥の権力掌握過程

 そのためには韓国における「70年代から80年代へ」という歴史の変化を理解する必要がある。筆者はその時代を現地で経験した。

 まず朴正煕政権(1961~79年)末期の1978年3月から1年間、語学留学した。当時は共同通信の記者で帰国後、本社外信部に配置された。1979年10月26日、側近による朴正煕大統領暗殺という大事件が起きた。11月3日の国葬に際し、日本政府の弔問特使となった岸信介元首相に同行しソウルに行った。

 滞在を延長し約2カ月、戒厳令下の韓国を取材した。そこで後の全斗煥政権誕生につながる軍部の若手による「12・12粛軍クーデター」に遭遇した。

「なぜ全斗煥時代は明るかったのか?」を説明するためには、全斗煥氏の権力掌握過程を知っておく必要がある。

「12・12」は全斗煥政権の前史にあたる。朴正煕暗殺事件の合同捜査本部長だった全斗煥・国軍保安司令官が、陸軍士官学校同期の盧泰愚・第9師団長らとともに軍の古参幹部を追放し、軍の実権を握った。深夜のソウルに戦車や装甲車が出動し、国防省や陸軍参謀総長公邸では銃撃があった。参謀総長は大統領暗殺事件の現場近くにいて事件への関与が疑われ、捜査対象になっていた。

 翌1980年になると、朴正煕政権の後継体制をめぐり政治混乱が始まる。与野党対立に加え学生デモが激化。“ソウルの春”といわれたが政局は混迷を深めた。

 全斗煥将軍ら新軍部は、政情不安の中で野党政権誕生に危機感を抱き5月17日、戒厳令を拡大。すべての政治活動を禁止し金大中氏ら有力政治家を連行、拘束した。これに反発したのが、金大中氏の故郷の全羅南道・光州市だった。ソウルや釜山など他地域でなくなぜ「光州」だったかというと、次期政権に金大中氏への期待が強く、それだけ反発が強かったのだ。

 学生、市民ら地域ぐるみの激しい抗議行動が展開され、制圧に軍が出動したことからデモ側も武装し武力衝突となった。これが約200人の犠牲者(軍・警察を含む)を出した「5・18光州事件」である。

 この時、筆者は東京にいたが、共同通信ソウル支局が光州事件の報道を理由に5月末で閉鎖されたため、支局再開に向け新軍部サイドと折衝にあたった。全斗煥氏が大統領に就任した1980年9月、臨時ビザを得て韓国に渡り、全政権の前半4年を現地でウオッチングした(支局再開は翌1981年4月)。

韓国の女性たちが化粧をするようになった理由

 全斗煥氏にとって「12・12」と「5・18」は政治的トラウマだった。民主的手続きによらない、政治的混乱収拾という名目の非常手段による政権誕生だったため「政権の正当性」に“弱み”となった。

 そこで全政権は新政権の意義を国民に印象付け、実感させるため、「新時代」をスローガンに思い切った政策を断行した。それが旧政権下で長年続いてきた社会的な統制、規制の解除、廃止だった。その最大のものが1945年の米軍占領時代から続いてきた「夜間外出禁止令」の解除だった。

 正式には「夜間通行禁止令」で通称「通禁(トングム)」といわれた。国防・治安上の理由だったが、午前零時から4時まで外出や交通は禁止され、屋外での活動は一切認められず、街はゴーストタウンとなった。つまり韓国国民には1日20時間しかなく、ひとびとは午前零時近くになると帰宅を急いだ。こんな毎日が40年近く続いていたのだが、それをなくしたのだ。

 これは人びとの日常生活を一変させ、「時間を気にしなくてもいい!」という自由と余裕が生まれた。

 また街頭のネオンサインが解禁になり、街灯も増えた。朴正煕時代はエネルギー節約のため夜はひどく暗かったのだが、全斗煥時代になり街も人も明るくなった。さらに中高校生たちの制服を廃止しヘアスタイルも自由化した。街から黒い詰襟服が消え、街は明るくなった。

 韓国を明るくしたもう一つの大きな要因はカラーテレビの放送開始だった。「通禁」解除は1982年1月だったが、カラーテレビの放送開始は政権スタート直後の1980年12月だった。それまでカラーテレビは“贅沢”とされ、国民は白黒テレビでガマンさせられていた。 カラーテレビは人びとの日常を明るくしたが、それ以上の波及効果があった。カラーの化粧品広告によって女性たちが化粧をするようになったのだ。韓国女性の化粧は、それまでは限られた人たちが限られた場面でするもので、一般の人にはあまり見られなかった。それがこの時からほとんどの女性が化粧するようになった。これで人びとの風情も一気に明るくなった。


 そのほかプロ野球やプロサッカー、プロ相撲(韓国ではシルムという)などプロスポーツも全斗煥時代に始まった。韓国にとって史上初めての国際スポーツ大会となったアジア競技大会(1986年)が開催され、1988年ソウル五輪の招致にも成功した。スポーツが韓国人の日常の話題に上るようになったのだ。

物価高を抑え込み、経済成長は10%近くまで

 ソウル市内を流れる漢江の再開発・整備が行われ、「漢江公園」はソウル市民の憩いの場となり、遊覧船も浮かんだ。今、漢江沿いは市民サイクリングでにぎわっているが、韓国のサイクリング時代の幕開けもこの時代だった。全大統領が自転車に乗ってさっそうと漢江公園を走る姿が、政権PRとしてテレビニュースになっている。

 その後1989年には海外旅行も自由化された。それまでは海外旅行は贅沢だったし、海外では北朝鮮によるスパイ工作の標的になるといって厳しく制限されていた。海外旅行自由化で普通の人も海外に関心が広がった。

 韓国の懐メロ・ヒット曲に『アパート』というのがある。今もとくに中高年層には人気がある演歌系の大衆歌謡だが、これが大ヒットしたのが1982年だった。「アパート」は日本風にいえばマンション。この時代、マンション暮らしが広がり、人びとのあこがれとなった。歌はマンション暮らしをする恋人に想いを寄せる話だが、この時以降、全国民の住の関心は「アパート」となり、今も「アパート分譲・入居・売買」は韓国の政治、社会を揺るがす最大イシューである。

 韓国の都市交通で地下鉄がスタートしたのは1970年代だが、国鉄の一部区間を地下化したに過ぎなかった。本格的な地下鉄時代の幕開けは、全斗煥時代にソウルの都心を一周する「環状2号線」が開通してからである。

 それに経済状態もよかった。全斗煥政権の最大の経済的成果は、前政権が悩まされていた物価高を抑え込んだことだといわれた。そして経済成長率も10%に近く、景気は好調だった。景気が好ければ社会は明るいし、人びとの表情も明るかった。

初の民主化選挙は野党分裂で……

 全斗煥政権は末期の1987年6月、民主化を求める反政府デモの盛り上がりを受けて憲法改正を受け入れた。それまで代議員による大統領間接選挙制だったのを直接選挙制に変えたのだ。国民一人一人が自分の手で大統領を直接選ぶというのが“民主化”の象徴だったからだ。

 その民主化選挙の最初となった次期大統領選は1987年12月に行われた。そこには「光州事件」のいわば“主役”だった金大中氏も立候補した。金大中氏は「5・18」で連行、拘束されたあと「内乱陰謀罪」などで戒厳令下の軍事裁判によって死刑判決を受けたが、後に減刑・釈放となり、米国滞在(亡命?)を経て政治活動を再開していた。

 選挙の結果は反政府・野党勢力が金大中・金泳三候補に分裂したため、「12・12」で全斗煥氏の同志だった軍出身の盧泰愚候補が当選してしまった。この結果、新憲法下の民主化時代のスタートは盧泰愚政権が担うことになり、1988年ソウル五輪も盧泰愚大統領が開会宣言をした。

 しかし「光州のハン(恨)」の象徴だった金大中氏は5年後の1992年の大統領選でも金泳三氏に敗れ、大統領になったのはその次の1997年だった。

 ここにきてやっと「光州のハン」は晴らされたことになる。金大中大統領が誕生した時、筆者は「これで高麗時代以来、権力から遠ざけられてきた湖南(全羅道)の“千年のハン”が晴らされることになった」と書いたことがある。

 その結果、金泳三政権下で「12・12」や「5・18」の不法性を理由に逮捕・投獄されていた全斗煥・盧泰愚氏も、金大中氏が大統領に当選した直後に赦免・釈放された。これで「朴正煕暗殺事件」に始まる激動の韓国現代政治史は一件落着のはずだったが、そうはいかないところが韓国である。

2022年大統領選挙と“全斗煥発言”で見えた「韓国人の歴史観」

 韓国は今、大統領選たけなわである。いつものように与野党の攻防が激しい。お互い片言隻句で足を引っ張り合っている。そんな中で野党「国民の力」の尹錫悦候補が全斗煥氏について、亡くなる前だったが「12・12と5・18を除けば政治をうまくやった」と語ったところ大問題になり、謝罪させられる場面があった。

 与党サイドはもちろんメディア、世論も一斉に非難した。対抗馬の与党「共に民主党」の李在明候補は、その種の“歴史歪曲”発言は処罰する法律を制定して規制すべきだと主張している。

 すでに紹介したように全斗煥時代についての“尹発言”は正しい。事実である。しかし尹候補および所属の野党(保守系)が謝ったように、事実であっても政治的にはそれを言ってはいけないのだ。李在明氏が大統領になり、そんな法律が制定されれば、こんなことを書いている筆者も処罰の対象になるかもしれない。

 多様な事実、多様な見方が封じられるとその事実は忘れられ、なかったことになってしまう。まだ同時代を生きた人びとが存在する、わずか40年ほど前のことでもそうなのだ。まして1945年に終わった日本による統治時代の事実など、どこかにいってしまっている。「日本時代にはいいこともあった」は韓国では今なお妄言であり禁句である。それを言えば政治家は失脚し、識者は社会的に追放される。

 全斗煥時代の振り返りは「韓国人の歴史観」を検証する絶好の素材である。韓国では歴史の見方が、人びとの暮し抜きというすこぶる政治過剰であると同時に、それがさらに後世の政治状況で左右されるのだ。事実を直視しない「韓国人の歴史観」には日本人は付き合いきれない。日韓関係がうまくいかない根本原因である。

(黒田 勝弘)

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