国際モーターショー「凋落」は、本当にSNSやネットの普及が原因なのか

東京をはじめ、北米や欧州など国際モーターショーの凋落ぶりが目立つ。有名自動車メーカーは出展を相次いで見送り、入場者数も激減、かつてのような華やかさはない。その理由について、自動車メーカー各社は「SNSなどのインターネットの普及」を挙げるが本当にそうなのか。(ジャーナリスト 井元康一郎)

国際モーターショーの凋落が止まらない

 国際モーターショーの凋落が止まらない。今秋に開催される予定の東京モーターショーへの出展を海外勢の大半が見送り、「国内メーカーショー」となることが確実になった。

 寂しい限りだが、衰退は東京モーターショーばかりではない。毎年1月にデトロイトで行われてきた北米モーターショーも参加メーカーが激減したうえ、出展企業も目玉技術の発表の場を同時期に行われるCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)に移すという流れに押されて2020年以降は6月開催になる。

 欧州モーターショーの衰退も著しい。

 今年9月に行われるフランクフルトモーターショーも、世界トップ3の座にあるトヨタ自動車が出展を見送るとドイツ紙が報じた。同じく日産自動車、マツダ、三菱自動車もフランクフルトショーからの撤退を決めている。日産は欧州市場ではトヨタに次ぐ2位。マツダ、三菱自も台数こそ多くはないものの、グローバルにおける欧州での販売比率が高く、決して欧州軽視ではない。

 にもかかわらず、ショーのほうは見放すのだ。ボルボのように、そもそもモーターショーではプレゼンしないと決めているメーカーもある。

 なぜこれほどまでに、国際モーターショーが求心力を失ってしまったのか。

 すでにいろいろな分析がなされている。内外を問わず自動車メーカーが好んで使う言い訳は「情報発信の主力がSNSなどインターネットに移行したため」というものだ。「時代の流れ」でこうなったのだから、仕方がないという論法だ。

 だが、これは「事の本質」を捉えていない。世の中では確かにSNSが情報拡散のメインステージになっている。だが、ここで拡散されるのはあくまでさわりのものであって、ライブではない。

 例えば、これからの季節、欧州のリゾート各地で行われる音楽祭。情報通信革命とはすごいもので、そこで行われる多くのコンサートの様子がリアルタイムで世界に拡散されている。その場に行かなくても、一流の演奏家のパフォーマンスを見られてしまうのだ。

 だからといって、その場にお金と時間をかけて出かけていって、ナマで触れることの価値が落ちたわけではない。むしろチケット争奪戦は年々激しくなっており、取れたら小躍りして喜ぶレベルだ。

ショーが魅力的でなくなった

 旅行でも音楽・美術鑑賞でも、写真や動画で見られるものは手触りがない。インスタグラムでいくらきれいな写真を見ても、そこに行くのとはわけが違う。写真を見てモノを知ったような気分になるのは、レストランの見本を見て味を知ったような気分になるのと本質的には変わらない。100回そこに行けば、時間、天気、季節、自分の気分等々のファクターで、100通りの体験ができる。1000回ならおそらく1000通りの体験があるだろう。だからこそ、ライブを求める人が後を絶たないのである。

 クルマのショーが衰退したのはSNSのせいなどではない。

 ショーが顧客にとって、そもそもまったく魅力的なモノではなくなったのが最大の原因だ。どこのショーを見てもクルマや技術が並べられているだけで、せいぜいその前でパフォーマーが芸を披露しているくらいのものだ。

 クルマがまだ物珍しかった時代、あるいは性能の急伸や、めくるめく新デザインの提案など、人間の官能性に強く訴える商品であった時代は、クルマを陳列するだけで十分ライブになった。だが、今は5000万円、1億円といったスーパースポーツですら物珍しくない時代。クルマのデザイン自体、流体力学の発展によってどれもこれも似たようなものになった。

 そんなクルマを昔と同じような感覚で並べ、新商品やコンセプトモデルを華々しく発表したところで、自動車業界人は関心を持つであろうが、クルマが特段好きという人以外にとっては「ライブで見たいというほどのものでもないか」と思われて終わりになってしまうのは必定というものであろう。

 ならば、心ときめくショーを作れば、顧客を再び集めることができるのか。

 残念ながら、その期待は望み薄である。内外の自動車業界関係者に意見を聞いてみたが、当事者たちがクルマ単体ではなく、クルマと何かを掛け合わせて来場者にモビリティの素晴らしい未来像を示すということに関心を持っておらず、「クルマそのものに興味を持ってもらえないのだからもうやっても無駄だ」と投げ出し気味なのだ。

 2017年の東京モーターショーの会期中、筆者はコンテンツのあまりのひどさに憤慨して、ダイヤモンド・オンラインで「こんなことでいいのか」という内容の記事を書いたことがある(参照記事:『手抜きだらけの東京モーターショー、楽しませる気概はどこへ』)。「やりたくないのならやめればいい」とさえ思ったのだが、その後に何社もの関係者が異口同音に「本音としてはもうやめたい」と言うのを耳にして、2倍脱力した。

モーターショーはモノで引っ張るだけのワンパターン

 自動車市場の規模が小さい日本の東京モーターショーと衰退の程度は異なるにしても、モノで引っ張るだけのワンパターン、創造性の欠如という点ではフランクフルトやパリのモーターショーも同じだ。

 欧州メーカーの関係者はCASE(コネクティビティ、自動運転、シェアリング、電動化)への対応で大変だと言い訳をするが、そんなことはユーザーには関係ない。

 ショーに足を運ぶかどうかは、ライブとして面白いか面白くないかで決まる。刺激的なものがあふれる今の世の中、単にニューカーやEVやコネクテッドカーを陳列しても興味を引くことは望めない。ならばどうしたらいいか…ということを考える前に、「やっても無駄だ」と見切るというのでは、未来はない。

 この問題の解決を難しくしているのは、観客に鮮烈なライブ感を提供するようなショーにしようというのは、1社ではできないということだ。

 モーターショーから撤退したり、モーターショー出展などもうやめたいと考えているメーカー関係者の話をもう少し詳しく聞くと、面白いことをやろうにも業績不振でそもそも予算がないというところだけでなく、「ウチだけ頑張ってもショー全体がそういう雰囲気でないなら、浮くだけで意味がない」という意見もあった。ごもっともである。

 この点について、ちょっと興味深い発言が聞かれたのはデトロイトショーだ。

 CESに押されて6月に開催されることになったのだが、夏開催となると、サマーフェスタのような演出が可能になる。ちょっと早いバカンスのアテとして来てくれる人もいるのではないかというのである。

 ローカルショーを見ると、例えば日本の改造車祭りである東京オートサロンが人気を博すなど、フェス化で人気を獲得している自動車イベントは結構ある。アメリカは世界の中でも突出してショービズを得意とする国ゆえ、何か面白いものを目にすることができるのではないかと期待したくなるところだ。

再興させる道は1つしかない

 フェス化以外で国際モーターショーを再興させる道は、もう1つしかないだろう。

 自動車メーカーが産業の頂点意識をキッパリと捨て、情報通信プラットフォーマーなど他業界のプレーヤーを「三顧の礼」で招き、来場者が本当にすごい、楽しい、自分も体験したいと思うようなコンテンツを作ることだ。

 だが、これは自動車メーカーが昨今打ち出しているCASEの“新機軸”を見る限り、非常に難しいと言わざるを得ない。まず、国を問わず自動車メーカーにはコンテンツを考える才能が希薄だ。

 ドイツのダイムラーは今年3月、完全自動運転の時代を見据え、車内のインフォテインメントシステム上でのゲームコンテンツのコンテストを行うと発表した。移動の時間、運転をしなくなることで生じる手持ち無沙汰を解消するための方策なのだろうが、これは噴飯ものだ。

 移動中、ウインドーには二度と同じものは映らないライブの情景が次々に現れては消える。そっちのほうに目線をやらず、車内でゲームをして過ごすのが移動の未来像だというのなら、今まで散々語ってきた「移動の歓び」とは一体何だったのか。

 車内のボイスコマンドにしても、発想力貧困というか、諸君はそれでいいのか?と思うようなものばかりだ。

 まず「ヘイ○○」「OK○○」みたいな呼びかけが、GoogleやAmazon、アップルなどのパクリそのもの。また、とある自動車メーカーがボイスコマンドによる検索のデモ映像を製作していたが、蕎麦屋を探しているのにそこに有名うどんチェーンの名前が混載されていた。

 しょせんはインターネットというお釈迦様の手のひらの上で踊っているだけなので、どうしてもそうなるのは致し方ないのだが、それをそのままデモ映像として得意げに紹介する時点で、感性が鈍いとしか言いようがないと思った。

 筆者は最近、三菱自の「アウトランダーPHEV」で450kmほどツーリングした。その車両にはカーナビがついておらず、かわりにスマホをミラーリングできる車載端末が装備されていた。果たして、音楽でもカーナビでも、はたまた他の機能でも、日ごろから使い慣れ、端末側でもいろいろ学習もしている「OK Google」で何でもできてしまう。

自動車業界は恐怖感に駆られている

 常に持ち歩いているスマホを媒体としたプラットフォーマー業界と、移動プラスアルファの付き合いに限定されるモビリティ業界では、人間が生きるということへの洞察がまるで違ってくるのは当たり前なのだが、自動車業界は今、自分たちが「食物連鎖の頂点」に行こうとして必死に抗っている。

 そうしないと「生きていけないのではないか」という恐怖感に駆られての、いわば生存本能にもとづいた行動だろうが、自分たちの殻を破って本当に面白いことをやろうとするならば、単なる協業、水平分業ではなく、勇気を持ってプラットフォーマーの下に付くことが必要ではないかと思う。

 彼らは自動車とは逆に、モビリティの世界においては頭脳はあっても身体は持てない存在。言い換えればライブがないのだ。

 自動車業界がライブの素晴らしさに本当に自信があるのなら、CASEの時代がきたとしてもモノにもう少し誇りを持っていい。そういう性根を持てれば、モーターショーも新しい存在意義を示すことができるようになるかもしれない。

 だが、今まで「食物連鎖の最上位」の居心地の良さに浸りきってきた自動車業界が、その荒海に乗り出す勇気を持てるかは疑わしいし、モビリティの素晴らしさに対して本当の自信、信念を持っているかもおぼつかない。このままでは、世界のモーターショーが完全に瓦解することは止めようがないであろう。

 ついでに言えば、CASEのワンパンチを食らったくらいで世界の自動車メーカーの信念がぐらついている今の状況は、東京モーターショーが世界をアッと言わせるチャンスでもある。そういう気概もプランも一切聞こえてこないのは、至極残念だが。

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