外国人が見抜いた「日本」を「変な国」にさせている「3つの原因」…日本を支配する「フィクション」

 日本文化はハイコンテキストである。  一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!  【写真】じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。

日本を支配するフィクション

 カレル・ヴァン・ウォルフレンに『日本/権力構造の謎』(早川書房)という二冊組の本があります。ウォルフレンはオランダの新聞の極東特派員をながく務めて、「フォーリン・アフェアーズ」の1986~89年の冬号に書いた「ジャパン・プロブレム」が評判になったので、これを機に本格的に日本の権力構造の歴史と現在にとりくんだジャーナリストです。  ウォルフレンの言う「ジャパン・プロブレム」とは、80年代の日本に疑問をぶつけたもので、自動車をはじめとする日本の輸出品の優位がアメリカの怒りを招き、いわゆるジャパン・バッシング(日本叩き)がおこっていたとき、日本は基本姿勢を改めなかったばかりか、そのような姿勢をとることの説明をしなかったのはなぜかというところに発していました。  ふつうなら、この反応は日本がナショナル・インタレスト(国益)を守るべき明確な意志や意図があるからだと想定できることで、そういう意志や意図があっていっこうにかまわないはずなのですが、ところが当事者間の交渉のプロセスを見ても日本研究者たちの分析によっても、どうもその意志も意図も明確ではないのです。「失礼しました、できるだけ改善しましょう」と言っているだけなのです。  そこでウォルフレンは次のような推理をせざるをえないと考えます。それは、日本にはおそらく三つほどのフィクション(虚構)があたかも現実のようにはたらいているにちがいなく、それが日本を「変な国」にさせているのだろうというものです。  一つ目は、日本は主権国家として最善のナショナル・インタレストの選択をしていると諸外国から思われているが、実はそのようなことができない国なのではないか。だから何かが欠如しているか、何かを粉飾してきたのではないかというものです。  二つ目、日本は自由資本主義経済を徹底していると主張しているけれど、どこかでごまかしているか、さもなくば内側では別の経済文化行為を許していて、外側の顔と内側の顔を使い分けているのではないか。そういうふうになっていても、そのフィクションを国民が納得して許容しているのではないかというのです。  三つ目、日本には世界中がまだ理解できていない名付けにくい体制、たとえばかつての武家制度や天皇制がそうであったような、海外からは理解しにくい体制をどこかに温存しているのではないか。しかし、もしそうだとしてもその体制について日本は自覚も説明もできていないのだろうというものです。  この三つのフィクションが絡んで動いているだろうだなんて、ジャーナリストとしても鋭いし、日本論としてもなかなかユニークです。穿った見方だとは思いましたが、私はおもしろく読みました。

権力が行方不明の国

 ウォルフレンは、日本には本物の権力があるのかどうかを問うた。権力構造にいいかげんなところや、不首尾なところがあるのではないかという疑問をもった。もし欧米社会でそのようなことがあれば、たちまちその権力は解体するはずです。でも、日本はそうならない。だとしたら、それはどうしてそんなふうになったのか。ずっと昔からのことなのか、それとも最近のこと、つまり敗戦後のことなのか、そこに分け入ろうとしたのです。  日本国憲法が定めるところでは、日本は議院内閣制の民主主義国家です。主権は国民にあり、立法権は選挙で選ばれた議員によって構成された国会にあります。したがって国会は法的にはすべての決裁者であるわけですが、ウォルフレンが見るところ、日本の国会は両院ともにそうなっていない。議題はたくさん出入りしているけれど、野党は「内閣なじり」ばかり、与党は「責任のがれ」ばかりです。  両院から委任された行政府として内閣がつくられ、そのガバメント(政府)のトップに内閣総理大臣が立つわけなので、行政権すべての決裁者は首相にあるのですが、日本の首相は自民党政治の領袖を争うだけで、国家の行政責任をまっとうするための権力を掌握もしていないし、行使もしていないというふうに、ウォルフレンには見えたのでした。  国会と首相が国家の権力を掌握していないとすると、これに代わって権力を動かしているのは官僚か財界かということになりますが、どうもこの両者にも権力が集中していません。どこかの役所や官僚のリーダーが目立つことはなく、大半の官僚の見解は政府の見解の「下支え」か「上塗り」が多い。経団連が国家の指針に対して明確なオピニオンを発表したことなどないし、有効な助言をしているとも感じられない。おそらくボスが多すぎて、両方ともに決定的なボスをつくれないか、つくらないようにしているのです。  国会、首相、官僚、財界が権力の中枢をつくりきっていないのに、日本のどの部門も中央集権的な組織になっているのも解せません。それぞれの団体、たとえば警察、農協、日教組、日本医師会、法曹界、体育界などは中央集権的にできているのに、それらが組み上がった全体としてのパワーシステム(権力構造)は、どこにも体現されていないのです。  多少疑わしいのは自民党で、ここにパワーシステムや中央集権の秘密があるのかもしれないと、ウォルフレンは時間をかけて調べるのですが、いくら調べてみても、どうやら自民党には派閥のパワーバランスがあるだけで、あとは「利益誘導」と「集票マシーン」が動いているばかりです。予算も財務省や各省庁に握られている。  中央集権力は中央の力が地方の末端に及ぶことでもあります。けれども日本のばあいはその「押さえ」は地方にばらまく地方交付金や「補助金」に頼っているようで、それは政治意志や権力意志ではなく「お金」なのです。  野党は野党で、のべつ権力奪取の声はあげているものの、それは与野党の力の逆転を選挙でどう勝ちとるかというところに主眼があって、あんなに時間があるはずなのに政治哲学を磨いているとは思えない、それが証拠に国民は野党の政治哲学に賛同して投票しているようではない。また政治哲学を磨くには、あまりに政党改変をしすぎている。  こうなってくると、残るは警察権力と自衛隊と保守的圧力団体のどこかの深部に権力中枢の発動源でもあるのかという陰謀小説のような推測になってくるのですが、そういうものがこの国でひそかに動いているとは思えません。  たとえば日本の警察権力は各国とくらべてみてもなんら遜色がないし、犯罪発生率や不正検挙率などを見ても格段の腕前をもっています。極度に中央集権化されている度合いも国内随一のようです。もしも野心を抱く一派がクーデターをおこすとすれば、公安警察と機動隊を握っている警察権力が一番の力をもっているといえます。  けれども日本の警察にはナショナル・インタレストに対する意志がないように思えます。好意的に見れば国内の正義と安定にはすばらしい機能を発揮しているとしても、対外的にナショナル・インタレストを守っているようには見えません。日本の評判やプレステージを高めるという意図もない。  自衛隊はどうかといえば、こちらは日米安保体制に骨の髄までしっかり縛られていて、にっちもさっちもいかないでしょう。三島由紀夫がかすかな望みをもったことはありましたが、自衛隊の隊員にも反逆の野望はひそんではいませんでした。私は「モーニング」連載時から、かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』(講談社漫画文庫)のファンでしたが、ああいうことはとうていおこらないのです。  それなら他の保守的な圧力団体が何かを掌握しているのかというと、農協から神社庁まで、産業界から右翼勢力まで、政治権力をほしがっているとは思えません。自民党とボス交ができていればそれで十分なのです。これではどこからもジャパン・クーデターなど、おこりっこない。  いったいどうなっているんだ、利権の構造ばかりが目立っているけれど、国家や権力は無用の長物なのか、そんなことはあるまいとウォルフレンは考えこみます。そこで想定できたのは次のようなことでした。

哲学なき権力構造

 日本の権力は、それがないなどとはいえないのだから、きっと極度に非政治的なプロセスでできているのだろう。そのシステムは欧米が規定してきた権力機構のしくみではなく、すなわち議会や内閣や官僚が制度的に掌握するのではなく、複合的なアドミニストレーター(管理者)によって連関的に体現されているのだろう。そう、想定したのです。  そうだとすると、そのしくみがパワープロセス(権力の行使過程)になっているだろうことはあきらかなので、またそのプロセスが中央集権的なプロセスになっていることもあきらかなので、それらがボディ・ポリティックス(統治の体制)としてのみ見えるようになっているということになります。そして、そう見えるような努力ばかりが尽くされているのではないかというのです。  一言でいえば、システムなきシステム、「権力中枢の不在を補うシステム」でできあがっているのが日本だというのです。日本の権力システムは部分と部分をつなぐアドミニストレーションの鎖でできていて、いわば関節技ばかりで決められてきたのではないかというのです。  リスポンシビリティ(行動責任)をとるけれど、アカウンタビリティ(説明責任)がとれないのは、説明する準備も哲学もないからだとも指摘した。 これはあまりにも情けない日本の実情を推定されたなと、ギクッとせざるをえないことですが、ではこの推定に代わることを日本はとりくんできましたか、たとえば大学やマスメディアはこの推定をくつがえす研究や提案をしてきましたかと、ウォルフレンは挑戦的な問いを投げかけたのです。  以上、ウォルフレンの見方には日本人が言いにくいところを突いたという点を含めて、なかなか興味深いところがあります。このあとも『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)、『アメリカからの「独立」が日本人を幸福にする』(実業之日本社)、『日本を追い込む5つの罠』(角川書店)といった、かなり踏みこんだというか、そうとうお節介なタイトルの本も書いています。  辛口でユニークな視点が躍如しているように感じられますが、ここで冷静になってやや大局思想的なことを言っておくと、実はこういう論調は、海外の知識人に多いリヴィジョナリスト(日本見直し論者)がしばしば口にしてきた日本異質論に近いものです。だから、その多くの議論は欧米の定見に沿って日本社会に切り込んだだけとも言えます。  たとえば、日本はナショナル・インタレストを守る主体がいないという見方については(日本が国益を軽視したことなんてありません)、欧米がそのための主体を前面に押し出して交渉決議してきた近現代史からすれば、そういうふうに受け取られても仕方がないところですが、日本はもともと合議的だったと、最近は中長期的な外交折衝に切り替わっていると見れば、反論可能です。ただ、日本人はそのことを世界にわかりやすく説明できていなかったのです。  *  さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。

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