告発文書問題で失職に追い込まれ、17日の兵庫県知事選で再選した斎藤元彦氏(47)。主要政党からそっぽを向かれた逆風下の選挙も、ふたを開けてみれば自民党と日本維新の会の推薦を受けた前回選より25万票以上も積み増した。パワハラや贈答品の受領疑惑で地に落ちたはずのイメージは選挙期間中に一変。「民意」の逆転を呼んだのは交流サイト(SNS)上に投稿されたあまたの〝援護射撃〟だった。
「真実隠し」の批判
「ごめんなさい。多くの人が報道を信じて斎藤さんを疑ってしまったことを謝りたかった」
開票作業が行われた17日夜、ネット番組に出演した政治団体「NHKから国民を守る党」党首、立花孝志氏(57)は中継を通じて斎藤氏にこう謝罪した。
斎藤氏を応援するため知事選に出る-。SNSで一定の影響力を持つ立花氏が、自らの当選を目的としない異例の立候補を表明したのは告示1週間前。そこからX(旧ツイッター)を中心に文書問題の投稿を重ねた。
立花氏は、告発文書を作成した元県西播磨県民局長の男性=当時(60)=の公用パソコンに職務とは無関係なプライベートな情報が多数残されていたと指摘。男性は7月に自殺したが、その原因は告発者捜しを命じた斎藤氏にあるのではなく、プライベート情報の露見を恥じたためだと訴えた。
告発文書は斎藤氏の人事に不満を持つ男性が失脚を企図して作成した「デマ」で、新聞・テレビがプライベート情報に触れなかった点も「真実隠し」と批判した。
一連の疑惑は県議会の調査特別委員会(百条委員会)が調べているが、斎藤氏はこれまでの証人尋問で、文書に記載されたパワハラ疑惑については「指導の範疇(はんちゅう)」との認識。贈答品受領はおおむね認めつつ「県産品のPR目的」などと受け取りの正当性を強調した。事実認定は今後の百条委に委ねられ、現時点で「デマ」と言い切れるものではない。
マスメディアvs.ネットの構図
告発男性は遺書に「百条委員会は最後までやり通してください」と書いた。自殺の原因は明示的にも示唆的にもほぼ触れられておらず「プライベートを恥じた」というのはあくまで立花氏の見立てだ。
立花氏は選挙期間中の産経新聞の取材に「正確に言えば、僕は斎藤さんを応援していない。真実を知ってくださいと言っているだけ。真実を知れば、自動的に斎藤さんの応援になる」と話した。
その言葉通り、立花氏がXなどに投稿した動画は爆発的に拡散。ネットコミュニケーション研究所のレポートによれば、立花氏はユーチューブで知事選関連の動画を100本以上投稿し、総再生回数は計約1500万回に及んだ。一方、斎藤氏本人のユーチューブは計約119万回。立花氏の影響力がいかに大きいかが分かる。
「『デマを流すマスメディアvs.真実を伝えるネット』という対立構図に持ち込み、大きなうねりを作り出した」。レポートは立花氏のSNS戦略をこう総括。同研究所の中村佳美代表は「今回の知事選は、SNSが持つ可能性と課題を非常によく示した象徴的な選挙戦になった」と話す。
斎藤氏は当選から一夜明けた18日、記者団の取材に「SNSは今回の選挙戦においては大きなポイントだったと思う。草の根的に、SNSでいろんな方が私の政策を整理し、拡散してくれたこともすごく重要だった」と振り返った。一方、立花氏の発信には「選挙中もまったく関係しておらず、彼は彼の立場で主張されたと思う」と述べるにとどめた。
「真偽見極める力を」近畿大教授・上崎哉氏(行政学)
今回の兵庫県知事選では当初、稲村和美氏のリードが伝えられていたが、斎藤元彦氏が猛烈に追い上げ、ついに逆転する形となった。
その大きな要因となったのがSNS(交流サイト)。斎藤氏の疑惑を告発し、亡くなった元県民局長を巡る虚実ないまぜの情報が事実確認がなされないまま拡散され、事実として独り歩きした。それを見て知事選に関心を持った人たちが投票所に足を運んで投票率を押し上げ、斎藤氏に有利に働いたと考えられる。中でも、SNSの影響を大きく受けたのは若者層だろう。
今回の知事選では、SNSと既存マスコミの影響力が逆転したともいえる。SNSは、使い方によって普段選挙に行かない層に関心を抱かせ、情勢を大きく変えることもできるということを証明した点で、大きな意義があったと思う。
一方でSNSはチェック機能が働かず、疑わしい情報もそのまま流れてしまい、多くの有権者を惑わせる危険性もはらんでいる。有権者一人一人が真偽不明の情報にまどわされないメディアリテラシーを身につけることが重要だ。
いよいよ多くの人が気づき始めた、兵庫県知事選挙で露呈した「リベラルの崩壊」
兵庫県知事選挙の知らせを聞いた。パワハラを指摘され、部下から内部告発を受けた際に過酷な対応を行い、関係者が亡くなり、議会から不信任決議を受けた斎藤元彦氏が、選挙で再び兵庫県知事として選ばれた。 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い 予想を超えて時代が早く動いている。模倣の欲望が、速度と強度を増しながら衝突し、高まっていく。死者も出る。その果てに何があるのか。やはり一抹の恐怖を感じる。 つい先日、アメリカでトランプ大統領が勝利したことについての記事を書いた( 「なぜトランプが勝利し、リベラルは負け続けるのか…多くの人が見過ごしている「問題点」」https://gendai.media/articles/-/141061) これを書いた時には、まだどこかで気持ちに余裕があった。日本に最も大きな影響を強烈に与える米国で起きたことではあるが、やはり外国のことである。しかしすぐに日本で同じようなことが起きたと見てよい。 今回の兵庫の選挙も、「リベラル」寄りの既存の政治・マスコミ勢力に対する異議申し立てであったという面が大きい。もっとも有力な対抗馬であった稲村和美氏の選挙活動を見ると、ご本人の問題というよりも、応援した選挙陣営への反発が足を引っ張ったのではないかという印象を持つ。応援するはずの相生市長が強圧的な態度を示した動画は強烈だったし、「しばき隊」の応援も残念な効果を発揮していただろう。 インターネット、SNSの影響の大きさを指摘する声が大きい。 既存の大手メディアや政治勢力が、特に左寄りの政治勢力がそれに対応できていない。 福島県で暮らす私にとって特に身近に感じていたのが、原発事故に関する放射線の低線量被ばくの影響を、どのような抗議を行っても過大に喧伝する大手メディアと左派の政治勢力のことだった。「このようなことが続けば、日本のリベラル勢力への信頼は地に堕ちるのではないか」と感じていたが、本当にそうなったと思う。女川原発が再稼働することになったが、このことは「処理水」の時に比べて、あまり話題にならなかった。 ネット時代の特徴は、特定の知識・経験を占有していると思われていた専門的な職業・技術集団の優位性が弱くなることだ。 言い換えるならば、みんなが似てくることで、準専門家的な発言をするのが容易になる。 私自身がその状況を利用していることを認めないわけにはいかない。 一方で、精神医学・医療の専門家としては、そのことの脅威も感じている。中途半端な言説の影響力が大きくなり、実臨床がやりにくくなったと感じる場面はある ひょっとしたら、社会のさまざまな専門職に従事する人が同様に感じているのかもしれない。 みんなが似てくる状況で、人にはどんな欲望が働くか。 模倣の欲望である。 私が参照しているのは、ジラールやラカンといったフランス生まれの思想家たちの仕事である。 似ている者たちが集まった時に、もっとも欲望を喚起するのは何か。 小さな差異である。 今回つくづくと感じたのは、現在の社会で、似た者同士になった社会の構成員の中に違いを作り出し、もっとも強い欲望を刺激するのは、「既存の勢力に立ち向かい、その結果迫害を受ける立場と認められ、大衆からの支持を得るポジション」だということだ。 そして権威を得て、人を断罪する気持ち良さ。 兵庫県知事選に関しては、最初に内部告発者とそれを支持する人々がそのポジションを手に入れたように見えた。しかし、斎藤氏とそれを応援する人々が、全力で、あらゆる手段を駆使して、それを逆転させた。 抑えておかねばならないのは、戦い方の意識と技術の面で、稲村氏を応援した人々はあまりに稚拙だったことだろう。しかし、問題はそれだけではない。 唐突に聞こえるかもしれないが、私はここで精神分析における「父」や「エディプスコンプレックス」についての議論を思い出す。 父は、社会的な権威において子どもに優越する存在である。より多くの責任を背負い、その責任を果たすための規範を内在化させている。これを父Aとしよう。しかしエディプスの場面で父は、母を子どもと取り合う同等の競争者となる。これを父Bとする。 トランプや斎藤氏の選挙をめぐる戦いで感じるのは、その人々が父Aの立場を放棄し、父Bの立場に全力で没入していることである。一般市民と政治家が、対等の立場で競争し、ネットを中心に「既存の勢力に立ち向かい、その結果迫害を受ける立場と認められ、大衆からの支持を得る」ポジションを奪い合う。しばらくそういう時代が続くのだと思う。 「模倣の欲望」を説いた思想家たちが示す予測は、決して楽観的ではない。欲望が加速してぶつかり合い、秩序が失われる。やがて大規模な殺人が行われて秩序が回復するまでそれは止まらない。
「リベラル」が強かった時代の崩壊
「リベラル」が強かった一つの時代が崩れようとしている。 この時代は「父」を傷めつけ過ぎたのかもしれない。父Aを押し付けられたものは、報われることが少なかった。その結果、「父」はそれまで担っていた父Aのポジションを放棄し、権威や雅量といったものは失われる。剥き出しの父Bの欲望を発揮して行動する。 権力・権威の場にあるものが、父Aを引き受けず、出てくるライバルを父Bとして叩くことを続けた。斎藤氏とその陣営は、それをより強力かつ徹底的に模倣した。 新たな秩序の構築には、父Aの再建が不可欠だ。これは生物学的な男性だけの、あるいは政治家のような権力者だけの責任ではない。社会のあらゆる立場の人が、これまで権力者にだけ押し付けていた父Aとしての責任を、自発的に引き受けていく必要がある。 具体的には、以下のような取り組みが求められる。第一に、人権意識の涵養である。これは単なる理念的な理解ではなく、日常生活の具体的な場面における実践として根付かせる必要がある。第二に、社会のさまざまな領域において、公正なデータの集積に基づいた客観的なルール設定を行うことである。感情的な対立を超えて、実証的な検証に基づく建設的な議論を可能にする土台づくりが重要となる。 さらに重要なのは、個人レベルでの心理的な成熟である。特に、自身の内なる怒りや羨望の感情を自覚し、それを否認するのではなく、パーソナリティの中に適切に統合していく作業が必要となる。このプロセスなしには、これらの感情が無自覚なまま社会的な対立や暴力として表出してしまう危険性が高い。 このような多層的な取り組みなしには、多くの人の父Bの欲望を引き受けたカリスマが現れ、それが肥大化し、最終的に悲劇的な暴力とそれによる新秩序の構築という事態に至る可能性が高い。私たちはそのような事態を回避し、より建設的な形で新時代に適応していく道を探らなければならない。そのためには、個人と社会の両レベルでの地道な取り組みが不可欠なのである。 旧秩序を破壊するだけではなく、どうやって新秩序を構築するかについても、目が向けられなければならない。 ちなみに、父Aと父Bの葛藤を経験し、それを乗り越えてその人なりの統一を達成したのがエディプスコンプレックスの克服と、近代的な意味での自我の確立というプロセスである。この理論枠では、そのような統一した自我を持つ市民たちが対話を通じて構築するのが、近代的な社会となる。 その意味で、私は斎藤氏が内部告発者への初動の対応が不適切だったなかで犠牲者が出現したこと、それを多くの選挙民が支持したことを批判する。
堀 有伸(精神科医・ほりメンタルクリニック院長)