「パンがないなら焼き菓子を食べればいいじゃない」の フレーズと現代日本の意外な接点
「パンがないなら焼き菓子を食べればいいじゃない」
フランス革命前夜、飢饉(ききん)に苦しむ農民に対して、マリー・アントワネットが口に出したとされる言葉です。本当は俗説で、後にルソーが書いたものがフェイクニュースとして広まったというのが真相らしいですが、いかにも世間知らずのお嬢様が言いそうな言葉です。
「ガソリンが高いなら電気自動車を買えばいいじゃない」
「吉野家が値上げしたのなら木曽路に行けばいいじゃない」
いくらでもこういう人はいそうです。
さて、今日の話題はこのアントワネットの言葉に登場する焼き菓子から始まります。彼女が言ったとされるのは、正確には「パンがないならブリオッシュを食べればいいじゃない」ということで、当時はお菓子だったブリオッシュは、今ではパン屋さんの定番メニューです。
ブリオッシュとはバターと卵をたっぷり使ったフランスの甘い菓子パンなのですが、これを食パンの型に入れて焼くとブリオッシュ・ナンテールという食パンになります。実は、これとよく似た商品を売るお店が今、日本中に広がっています。
2018年頃から広がった高級生食パンブームがそれです。ふわふわでしっとりしていて、とても甘い。生食パンという名のとおり、買った日が一番おいしくて日持ちさせない方がいい。1斤が1000円ほどの高価格ながら「手に届くぜいたく」として人気に火がつき、次々と高級食パンを製造・販売するお店が出現しました。
高級食パン店に激震 ブームに翳りが生まれた背景
ところが、最近はこの高級生食パンがおいしい「理由」まで広まってきました。お店によって違いはあるのですが、あるお店の商品の場合、使っている小麦は他のパン屋さんと同じアメリカからの輸入小麦。ではなぜおいしいのかというと、バターとマーガリン、砂糖をたっぷり使うからなのです。
砂糖はイースト菌の発酵を促しますから、たくさん入れればパンはふわふわになる。当然甘い。さらに、脂肪分がたくさん入っているからおいしい。ですが、高カロリーです。
そして、普通の食パンのように中種法ではなくストレート法という発酵時間が短くて済む製法で焼き上げます。この製法で作ると普通の食パンのようには日持ちしないのですが、当日はおいしい。発酵時間が短いので生地を置いておく場所を取らないから、小さなお店に向いています。
要するに、ブリオッシュと高級生食パンの作り方の方向性は同じ。だから、お菓子のように甘くておいしいのです。これが日本でブームになった。そして最近はそのブームに翳(かげ)りが出ている様子です。
この高級食パン業態が、従来のパン屋さんとは違う奇抜でおもしろい名前が付いた食パン専門店として広まったのは、ブランド戦略としてはわかりやすい方法でした。お店の名前だけ見れば、「ここは普通のパン屋さんではない」ことがわかります。売っている商品も普通のパン屋さんのようにいろいろなパンが置いてあるのではなく、高級食パンしか置いていない。だから、「ここは高級食パンの専門店だ」ということが消費者にすぐにわかる。
ところが今、ツイッターなどで話題になっているのは、全国で変な名前の高級食パン店が次々と閉店しているというニュースです。10年ぐらい前に全国に一斉に白いたい焼き屋さんが広がったときの状況と、よく似ている気がします。
どちらも作り方さえわかれば開業しやすく、過当競争に陥りやすい。1斤1000円の食パンを手に届くぜいたくとして買う顧客数よりもお店の数が多くなれば、当然、淘汰がおきるようになります。
4月の小麦価格17%値上げで 今年後半の食品の値上げラッシュもほぼ確定
さて、ここまでが足元の高級パン屋さんの業界事情なのですが、そこにもう一つ暗雲が近づいています。小麦価格の急騰です。
農林水産省は、政府が買い付けた輸入小麦の価格を4月から17.3%引き上げると発表しました。日本は、小麦の需要のうち9割を海外からの輸入に頼っており、安定的に流通させる目的で政府が国家貿易によって計画的に輸入して、国内の製粉会社などに売り渡しています。
その売り渡し価格が4月から大幅な値上げになるのです。さらに足元の国際相場を見ると、次の価格改定時期である10月には、さらに値上げしそうな状況だというのです。
実は、読者の皆さんもご存じのように小麦製品は昨年来、値上げラッシュが続いています。その背景には、政府の売り渡し価格の度重なる値上げがあります。昨年4月に売り渡し価格は5.5%値上げし、10月には19.0%の値上げもありました。それを価格転嫁するために、パンやパスタ、うどんなどの小麦製品の小売価格が段階的に引き上げられてきました。
今回はそこからの大幅値上げですから、今年後半も食品の値上げラッシュは続くことが確定したようなものです。
さて、このような小麦の大幅な値上げにもかかわらず、今年の消費者物価指数の上昇は2%程度にとどまりそうだというのが、国内シンクタンクが発表する予測です。なぜなのでしょう。
小麦価格が17%上がっても 178円の食パンが2.6円しか上がらないカラクリ
小麦の売り渡し価格値上げの発表に際して、農水省が小売価格への影響を試算しています。実は、その資料によれば、今回の小麦価格値上げで、1斤178円の食パンは2.6円しか上がらないと試算されています。
小麦価格が17%上がるのに、食パンの値上げ幅としては1.5%しか上がらないという試算なのは、なぜでしょうか。それは、食パンの小売価格に占める小麦の原材料費の割合が8%だから。これが農水省の試算前提です。
では、実際はどうでしょう。もし試算の前提として、食パンに入れるマーガリンの価格も上がらない、包装資材のプラスチック価格も上がらない、お店に輸送するトラックのガソリン価格も上がらない、パンを製造する会社の社員の賃金も上がらないというのであれば、食パンの価格は1.5%しか値上がりしないと私も思います。
しかし、足元の経済はそうではありません。食用油の価格は小麦同様に上昇し、原油価格高騰で包装資材も、工場を稼働させる電気代も、輸送のガソリン代も値上がりしている。岸田政権は、従業員の賃金も上げるように指導している。しかも、海外から物を買う際の為替レートは1ドル=120円台に突入し、一年前よりも10%もドルが高くなっている。
つまり、食パンの価格が2.6円しか上がらないというのは、小麦だけの値上げを計算した仮想の数値で、実際の食パン価格の予測数値ではないのです。
2022年度の消費者物価指数は 試算以上に跳ね上がる可能性も
そして、上で述べたような物価の上昇もすべての要素を総合したら、「2%に収まる」という従来の予測が覆りそうな状況が生まれています。
消費者物価指数の構成要素を細かく見ると、実は昨年10月から日本の物価は1.5%上がっていてもおかしくはない値上げラッシュが始まっていました。それが数字に表れなかった理由は、菅前首相が取った携帯電話の通信料値下げの政策で物価がちょうど1.5%ほど押し下げられ、相殺していたからです。
今年4月から携帯値下げの要素が影響しなくなるので、次年度は2%の消費者物価指数の上昇になるというのが従来のエコノミストの予測でした。
しかし、その後2月にウクライナショックが起き、原油価格が高騰し、ウクライナの小麦がヨーロッパに回らない関係で世界の小麦価格が急騰している。そして、為替レートは急激に円安に向かっている。そういう新しい要素を加えたら、実は2022年度の消費者物価は従来予測では済まない可能性の方が高まっています。
「どうしよう。これじゃあ高級生食パンが買えなくなってしまう!」とご心配の国民のみなさんに、マリー・アントワネットのちょっと尊大な点からアドバイスをしてみましょう。
「ブリオッシュが買えないのだったら食パンを買えばいいのに」
フランス革命のような民衆蜂起が日本では起きないことを心から願います。
(百年コンサルティング代表 鈴木貴博)