「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」――。新著『 サル化する世界 』で、利己的で近視眼的なものの見方をする人々が増殖する社会を“サル化”と定義した思想家・内田樹氏が、世界的なモラルハザードを喝破する。
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「今さえよければそれでいい」という発想
――現代社会の趨勢を“サル化”というキーワードで斬った思いは何でしょうか?
内田 “サル化”というのは「今さえよければそれでいい」という発想をすることです。目の前の出来事について、どういう歴史的文脈で形成されたのか、このあとどう変化するのかを広いタイムスパンの中で観察・分析する習慣を持たない人たちのことを“サル”と呼んだのです。
歴史学的なアプローチも探偵の推理術も同じです。目の前に断片的な情報が散乱している。そこから「何が起きたのか」をいくつかのパターンで考え出し、すべての断片をつなぐことのできるストーリーを選ぶというのが探偵の推理術です。それが論理的思考ということです。でも、今の日本では、政治家も官僚もビジネスマンもメディアも、論理的にものを考える力そのものが急速に衰えた。広々とした歴史的スパンの中で「今」を見るという習慣がなくなった。時間意識が縮減したのです。それが「サル化した社会」です。
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「サル化」という言葉は「朝三暮四」の故事から
――確かに社会のさまざまな局面で長期ビジョンが失われ、刹那的な傾向が強まったように思います。
内田 「サル化」という言葉は「朝三暮四」の故事から採りました。サルたちにこれまで給餌していた8つの栃の実を7つに減らすことになったとき、「朝3、夕方4ではどうか」と言ったらサルは怒り出し、「じゃあ、朝4、夕方3は?」と言ったら狂喜した。朝の自分と夕方の自分が同一であるということが仮想できなかったのです。ある程度長い時間を通じて自己同一性を保持できない人を笑ったのです。
中学の漢文の授業で習ったときは「変な笑い話だ」と思っていたんです。どうして「こんな話」が何千年も語り伝えられるのか、意味がわからなかった。でも、よく考えたら、漢文で習う「守株待兎」も「矛盾」も「鼓腹撃壌」も、全部春秋戦国時代のものですが、本質的に「同じ話」なのです。どれも時間意識が未成熟な人間を笑っている。
適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという “脅し”
「矛盾」の武器商人は、「矛を売っているときの自分」と「盾を売っているときの自分」が同一であるということをうまく想像できない。切り株に偶然ウサギがぶつかったら、次の日から野良仕事を止めてしまった「守株待兎」の農夫には「確率」とか「蓋然性」という概念がなかった。「鼓腹撃壌」では「皇帝の善政のおかげでみんな幸福に暮らしている」と歌う子どもたちと「オレの日常に皇帝は何の関係もない」とうそぶく老人が対比的に扱われていますが、この老人には「因果」という概念がない。「矛盾」も「蓋然性」も「因果」もすべてある程度長い時間を俯瞰する視座に立たないと発生しない概念です。
これらの逸話が春秋戦国時代に集中しているということは、おそらくその時期に「時間意識が成熟した人間」と「時間意識が未成熟な人間」が混在していたということだと思います。だから、「時間意識が未成熟な人間」を文明化することが社会的急務だった。こういう逸話が集中的に語られたのは、適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという「脅し」によって、人々を教化しようとしたからだと思います。
――有名な故事の数々が、時間意識のトレーニングになっていたというのは驚きです。
内田 時間意識とは「もう消え去った過去」と「まだ到来していない未来」を自分の中に引き受けることです。過去の自分のふるまいの結果として今の自分がある。未来の自分は今の自分の行動の結果を引き受けなければいけない。そういう骨格のはっきりした、ある程度の時間を持ちこたえられるような自己同一性がその時代から要求されるようになった。
エマニュエル・レヴィナスが「時間とは主体と他者の関係である」という非常にわかりにくい命題を語っていますが、僕たちがそれが「わかりにくい」と思うのは、「時間意識」というものが伸縮するということを忘れているからです。ごく限定的な時間意識しか持たない人間と、広々とした時間意識を持つ人間がいる。
一神教信仰は信仰者にこの「広々とした時間意識」を要求します。「造物主による創造」という想像を絶するほどの過去と、「メシアによる救済」という想像を絶するほどの未来の間に宙吊りにされている今の自分というものを把握できたものだけが一神教のアイディアを理解できる。そこから人間の知性と倫理性が発動する。そういうアイディアが生まれたのが紀元前1000年から500年くらいのことであり、それが人類史的な特異点(シンギュラリティ)を形成したのだと思います。
現代人が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないか
だから「今だけ、自分だけよければ」という現代人に特徴的な時間意識の縮減は、それから2000年、3000年経って人類が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないかと思ったのです。
――いまは日々あまりに忙しすぎて、目の前のことにあくせくせざるを得ないという社会環境も大きいと思います。
内田 産業構造の変化のせいだと思います。経済活動が人間的時間を超えた速度で活動し出した。株の売り買いなんかはマイクロセコンド単位で、アルゴリズムが行うわけですから、今の経済活動の基本時間はもう人間的時間ではない。人間の身体感覚や知性が賦活される時間の流れ方ではないのです。
僕が子供の頃、1950年代はまだ生産者のうち農業従事者人口が50%を占めていました。ですから、経済活動を考量するときの時間単位が「植物的」だった。ですから、学校教育でも、子どもたちの成長は農業のメタファーで語られていました。「種子を撒いて、水と肥料をやって、日に当てて、風水害や病虫害から守ると、収穫期には果実が実る」という言い方で家庭教育も学校教育も語られた。
子どもたちは「種子」ですし、育ち方はお天道さま頼りですから、先行きどのようなものに結実するか予測できない。キュウリができるのか、トマトができるのかは分からないけれど、きちんと手入れをすれば、この子が持ってる潜在可能性は開花するだろうという、諦観と楽観の入り混じった感情で子どもは育てられた。いくら手入れをしても、さっぱり芽を出さない子については「大器晩成」といって、そのうち何か大きなものに結実するんじゃないかというような気楽なことが言われた(笑)。
かつての植物的な時間の中での子育て
――ゆったりとした植物的な時間の中で子供も育まれていたわけですね。
内田 植物的時間というのは、基本四季のサイクルですからね。のんびりしたものでした。子どもは工場で工業製品を作るように、仕様を決めて、納期を決めて、規格を決めて、全工程を管理したら出て来るものだという考え方をしなかった。親や教師が管理できるのはせいぜい全体の2~3割であって、8割ぐらいは自然力任せという感覚があった。日光や雨量やイナゴの来襲は人力ではコントロールできませんから。
人類史のなかで農業が支配的な産業だった時期は長いです。だから、「子育て」についてのプロセスは無意識に農業のメタファーで語られていました。たとえば、ガリ版で刷った学級通信なんてだいたい「めばえ」とか「わかば」とか「みのり」(笑)というようなタイトルだったでしょう。幼稚園のクラス名などもよく植物の名前が使われていた。「うめ組」とか「ひまわり組」とかね。でも、産業構造が変わって、第二次産業が基幹産業になると同時に、工場での工業製品の生産プロセスに準拠したメタファーが用いられるようになった。そういう転換は無意識のうちに行われたので、誰も気づかなかった。
人間は生身の生き物なんであって、缶詰や乾電池じゃない
今は学期ごとに学習到達目標が数値的に示されて、そこで示された「納期」と「仕様」に合わせて「生産」がなされなければいけないとみんな思っている。まるで自動車やコンピュータを作るように精密な工程管理と製品の質保証がうるさく言われるようになった。教育について語る言葉遣いも工学的になってきた。「シラバス通りの授業をしろ」とか「学士号の質保証」とか「PDCAサイクルを回す」とかいう、どれも工業の用語です。
それと同時に四季のサイクルを基準にした植物的時間が棄てられて、その代わりに納期と仕様に合わせて工業製品を生産する工学的時間が採用されるようになった。人間では制御できない巨大な自然力が子どもの成長に介入するという考え方そのものが廃棄されて、すべては人工的に管理できるということが前提になった。
でもね、人間は長らく植物的な時間のなかで子どもを育ててきた。それで何千年かやってきて、うまくいったんです。産業構造が変わったからと言って、教育まで支配的な産業構造に合わせて変える必要なんかないと僕は思います。子どもは植物的時間の中で成長すればいいじゃないですか。人間は生身の生き物なんであって、缶詰や乾電池じゃないんですから。
長期スパンで見たときのドナルド・トランプ
――近年、とみに政治家が平気で嘘をつくようになりました。嘘の答弁を並べ立てたり、フェイクニュースを垂れ流すのもまた時間意識の縮減でしょうか。
内田 Honesty pays in the long runということわざがありますね。「長期的に見れば、正直は引き合う」という意味ですが、それは逆に言えば、「短期的に見れば、嘘は引き合う」ということです。だから時間意識が縮減して、「短期的に見る」ことしかしない人間にとっては「嘘をつくことの方が引き合う」んです。
ドナルド・トランプは100年単位の長期的なスパンでとらえたら、米国史上でもっとも愚鈍で邪悪な大統領として歴史に名を残すでしょう。長期スパンで見たときに、アメリカの国益を大きく損なった人として世界史に記録されることは確かですが、短期的に見れば大成功している。ファクトチェックによると、就任からすでに1万以上の嘘を重ね、フェイクニュースを垂れ流したことによって成功したわけです。「嘘は引き合う」の最も説得力のある事例です。
アメリカでも日本でも“サル化”が進行している
約束を守るとか、隣国との信頼関係を構築するのは、短期的にはコストがかかるかも知れませんけれど、長期的には安全保障コスト、外交コストを引き下げることになる。でも、今のアメリカにはそれができない。他国を恫喝して、外交的な危機を煽ったほうが有権者は喜ぶし、兵器産業は儲かる。トランプが今もアメリカ国民の相当数から支持されてるということは、アメリカ人でも“サル化”が進行しているということだと思います。
日本でも同じです。安倍晋三も嘘に嘘を重ねてきましたけれど、本人はそれほど罪の意識はないと思います。「長期的に見た場合、こんな嘘を言って帳尻は合うのか」という考え方をしない人間にとっては「嘘をつかない」インセンティブはありませんから。世界中が“サル化”しているわけで、日本だけが特別悲惨なわけではないということです。そんなことを言っても何の慰めにもなりませんが。
――嘘が蔓延する一方で、露悪的に暴言を吐いたりヘイト発言をする人が、ある一定層にウケている現象についてはどうご覧になってますか?
内田 暴言を吐く人は昔からいました。でも、そういう「下品な人間」はあまり人前には出てこられなかった。そういうことは人前で言うもんじゃないという常識の抑制がかかっていたし、人前で下品なふるまいをする人間にはそれなりのペナルティが科された。でも、今はネットで匿名で発信できます。実社会で、固有名で発信した場合には相応の社会的制裁を覚悟しなければならないことでも、匿名でなら、責任をとるリスクなしにいくらでも下品になることができる。だから、これまで抑制されてた下品さが噴出してきた。下品な人間の比率そのものは時代によって変わりはしません。別に日本人が全体として下品になったわけじゃなくて、これまで隠れていた下品な人間が可視化されただけなんです。
さっぱり楽しくない「気まずい共生」とは?
――そうした時間意識が社会の分断化をより強めてきたようにも思います。どうしたら互いに溝の深い人々とも同じ共同体を形成することができるのでしょうか。
内田 哲学者のオルテガ・イ・ガセットが言うとおり、「敵と共に共生する、反対者とともに統治する」というのがデモクラシーです。だから公人たる者は反対者たちの意向も代弁して集団の利益を代表するのが仕事であって、自分の支持者の利益を代表するわけではない。それがいまや、デモクラシーというのは多数決のことだというシンプルな理解が支配的になった。選挙結果が51対49だったら、敗けた49についてはまったく配慮する必要がないと公言するような人物が首長になったり議員になったりしてる。彼らは自分が公人であるという自覚がない。自分の支持者を代表しているだけなら、「権力を持った私人」でしかない。
デモクラシーの原点に立つなら、公人たる者は、自分の個人的な思いは痩せ我慢してでも抑制して、異論と対話して、反対者と共生する作法を学ばなければいけないと思います。それが本書にも書いた「気まずい共生」ということです。「気まずい」わけですから、さっぱり楽しくない。合意形成にもやたら時間がかかる。でも、それがデモクラシーのコストなんです。デモクラシーのコストを引き受ける気がないなら、独裁制か無秩序か、どちらかを選ぶしかない。
内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。他の著書に、『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『街場の天皇論』『そのうちなんとかなるだろう』、編著に『人口減少社会の未来学』などがある。