「地方に行くほど珍しい名前の子どもが増える?」DQNネーム流行の背景を探る!

光宙(ぴかちゅう)、嗣音羽(つぉねぱ)、希夢良(きめら)、月(せいら)。一見して何を意味しているかもわからなければ、読むことも難しいが、これらはすべて人の名前である。珍しい名前のことを「DQN(ドキュン)ネーム」「キラキラネーム」と呼ぶこともすっかり定着した昨今だが、ネット上ではそんな名前に対する拒否反応はやかましい。2ちゃんねるではDQNネームにまつわるスレッドが毎日のように立てられており、中には「これはDQNネームじゃないよね……」と不安げに書き込む親の姿もみられている。いったい、どうして親たちはDQNネームを付けたがるようになったのか。そして、それに対する批判が鳴りやまないのはなぜなのか? 『名づけの世相史』(風響社)の著書もある京都文教大学文化人類学科教授の小林康正氏にお話を伺った。
■個性を求めた80年代と90年代の「たまごクラブ」
 ベネッセコーポレーションが発表したランキングによれば、2011年生まれの男の子は「大翔(ひろと)」「蓮(れん)」「悠真(ゆうま)」、女の子は「結衣(ゆい)」「葵(あおい)」「結愛(ゆあ)」などの名前が人気となっている。人気とはいえ、正直昭和生まれの人間にとっては、なかなか馴染めないものも多い。
 小林氏によれば、1990年代より多くなってきたという珍しい名前。よく言えば“個性的”であり、悪く言えば“DQN”な名前だが、そんな名前を付ける土壌はすでに80年代から用意されていた。
「80年代から、個性的な名前を肯定した『名づけ本』が数多く出版されるようになってきました。そこでは『国際化に対応するように』『他人との差別化を図れるように』と、さまざまな珍しい名前が提唱されていたんです」
 小林氏は著書で、86年に出版された『What is your name? なまえはコピーだ! いい名前・悪い名前・普通の名前』(四海書房)という名付け本を引きながら、珍しい名前の歴史をひもとく。「ネーミングとコピーでモノが売れる時代、あなたは名前で損をしていませんか?」というコピーが添えられたこの本は、電通のコピーライターたちによって出版された。命名とネーミングを同じものとして扱うその手つきからは、80年代的な消費文化が見て取れるだろう。
 そして、その風潮が加速していったのが90~00年代にかけてだった。小林氏によれば、その背景で、ある雑誌が中心的な役割を果たしていたという。
「『たまごクラブ』(ベネッセコーポレーション)は年間4万人に及ぶ名前を収集し、名前のデータベースと、命名に関する具体的な知識を誌面で提供してきました。90年代になるとこの雑誌を中心に、膨大な名前のデータが提供されるようになり、どんな名前をつければ他人と同じにならず“個性的”になるかがわかるようになっていったんです」
 親は「かっこいい」、もしくは「かわいい」響きの名前を求めるもの。けれども、多くの人がそう思う名前は、かえって没個性的なものになってしまう。だから、親たちは、当て字や漢字の読み方を変えることで言葉をずらし、他人には読めないような名前を生み出してきたのだ。
■“読めない名前”は当たり前だった
 現在、DQNネーム批判として最も代表的なものが、親たちの「公共性」を問うもの。「読めない名前や珍しい名前には公共性がない=そんな親には公共性がない=常識がない」というのがひとつの論拠である。「ただ、名字で呼びかけることがほとんどです。名前が読めないから困る、ということは案外少ないのではないでしょうか」と小林氏。さらに、歴史的な文脈からも、読めない名前の妥当性を話す。
「日本の名前の歴史としては “読めない”ということは当たり前だったんです。漢字には『名乗訓』という、名前にだけ使える独特の読み方があります。例えば、源頼朝なら“朝”を“とも”と読むのは、名前以外にありません。山県有“朋”もそうですね。江戸時代には名乗訓専用の辞書もあったほど。本来、名前とは読めないものだったんです」
 しかし、その風潮が一変したのが大正から昭和にかけての時代。緩やかな変動を持ちながらも、名前にとってはとても安定した時代が続いた。そして平成に入り、この安定は崩れ始めている。
「名前は時代を映し出します。とくに戦後は日本全体が比較的安定した時代であり、個性が不要だったので、名前も横並びだったんです。一方、現代は個性が求められる時代にもかかわらず、多くの人はサラリーマン的な個性のない生活を営んでいます。名前だけでも個性的であれという気持ちが、珍しい名前を生み出しているのではないでしょうか」
 また、子育て環境の変化も、珍しい名前を生み出す一因だろう。以前であれば、家族のほかにも地域に生きる多くの人が子育てに関わってきたが、現代では、父母を中心とする家族以外の人間が積極的に子育てに関わることは少なくなってしまった。「今の親は公共性がないからダメだと安易に結論付けては、本質を見逃すことになるでしょう」と小林氏。
「現代の子育ては、かつてのように公共空間が担っているわけではなく、学童保育や塾通いなどの『教育サービス』が、その役割の一部を担っています。子育てをする親たちの公共性がなくなったというよりも、公共空間そのものが子育てから消えてしまっているのです」
こういった環境の変化によって、親の子育てに対する意識も徐々に変化していっているのは事実だろう。
■メディアが影響するDQNネーム
 では、DQNネームは、いったいどういう親が名付けているのだろうか? 「“下流志向” がDQNネームと結びついているのではないかという見解はよく耳にしますが、はっきりとそれを裏付けるような調査結果はありません」と小林氏。だが、「あくまでも私の推論ですが……」と前置きした上でこう続ける。
「地方に行くと、珍しい名前の子どもが多くなる傾向にあるように感じます。地方ではテレビや雑誌などで増幅された情報がストレートに受け入れられる傾向にあり、マスメディアに影響された珍しい名前も広がりやすいのではないでしょうか」
 以前であれば、漢字・漢学の知識が、名前にとても強い影響をもたらしていた。しかし、現代ではこうした教養としての漢字の存在感は、かつてに比べて弱くなってしまった。そういった世間の変化をマスメディアが反映し、さらにメディアに影響された親たちが、子どもたちに“珍しい名前”を命名する。カタカナに当て字を施した名前や、キャラクターに依拠した名前の増加は、日本人と教養としての漢字との距離の変化をも表している。
 もはや、2012年には珍しい名前も珍しくなくなり、「かくあるべき」という名前の観念そのものが揺らぎ始めている。「これはDQNネームなのか……」という親たちの不安を裏返して考えれば、つまり、DQNネームと普通の名前との境界線が揺らいできたということだろう。小林氏も現代の学生と接しながら「珍しい名前でいじめを受けるといった話が、かつて以上に聞かれるということはありません。しかも興味深いことに、名前が個性的なので、『あだ名』が減少しているといわれているんです」と報告する。どうやら、このまま、珍しい名前は市民権を得ていくようだ。そこで小林氏は、こう提言する。
「名前には親の願いが込められているものの、その願いを受取けるのは名付けられた本人です。なので、1回であれば簡単に改名ができるように、制度を変更してもいいのかもしれません」
 もちろん、親たちが頭を悩ませながら考えた子どもたちの名前を、外部の人間が安易に「よい」か「悪い」かという判断をすることはできない。だが、珍しい名前が流行し、それに対する反発も語られるこの状況からは、「個性化」「公共性」「マスメディア」など、現代社会が抱えるさまざまな問題が浮かび上がってくる。
(取材・文=萩原雄太[かもめマシーン])

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