「安くてうまい」をキープした“企業努力”が、庶民を長く苦しめてきたワケ

ステーキ、牛タン、牛丼などが続々と「値上げ」をしている。

 コロナ禍によって世界的に肉の生産が落ち込み、供給が追いつかない、といういわゆる「ミートショック」が原因だが、この傾向は今後も進行していくという見方も多い。

 経済発展著しい中国で刺身を食べる人が増えて、日本が買い負けしてきているように、世界的に肉食人口が増えている。一方で、2018年から干ばつに悩まされているオーストラリアのように、肉の生産国が環境や労働力不足が原因で、供給量が減っている。そのため、今後ますます肉をはじめとした食料の争奪戦が激しくなるという。

 年の瀬を前にして、お先真っ暗という話だが、一方で今回のような「値上げ」も悪いことばかりではない。日本人の間で半ば常識のように定着してしまっている「安くてうまいのはいいことだ」という妄想を見直すきっかけになるかもしれないのだ。

 10月末、ミートショックで吉野家が牛丼(並)を426円に値上げをしたとニュースになったが、筆者がまだ10代だった30年以上前もそれほど変わらない水準だ。200円台になったこともあるが、この30年ほとんど同じような価格をキープしている。これがかなり異常なことであり、日本経済にとってもマイナスであることを、ミートショックを機に、社会が広く認識できるのではないか。

 「何がマイナスだ! “安くうまい”のおかげでどれだけ救われている人がいると思っているのだ!」というお叱りが飛んできそうだが、そんな幸せを実現するための“企業努力”のせいで、庶民の地獄が30年間も続いている醜悪な現実に、いい加減そろそろ気付くべきだ。

 日本の「安くてうまい」がいかにクレイジーな領域までいってしまっているのかを、理解するのにうってつけなのが、ビッグマックの価格である。1990年当時の価格を基準とすると、米国や中国は約2.5倍に高くなっているが、日本は約1.05倍。吉野家の牛丼と同じで、ほとんど同じ水準なのだ。こういう国はかなり珍しい。

●ビッグマック価格と年収の関係

 このビッグマック価格と見事に重なるような動きをしているものがもう一つある。それは、日本の平均年収だ。OECDのデータによれば、米国、ドイツ、英国、フランス、そしてお隣の韓国でさえ90年から平均年収は基本的に右肩上がりで増えている。しかし、日本だけが「30年間横ばい」なのだ。

 吉野家やビッグマックが30年間、「安くてうまい」をキープしてきたように、日本企業も30年間、賃金を「安くて経営者にとっておいしい」という状態にキープしてきたのだ。

 「無理にこじつけるな! 日本の賃金が低いのは、新自由主義の失敗と消費増税でデフレになったからだ!」とかなんとか反論をする人も多いだろうが、「安くてうまい外食」は間違いなく、日本に低賃金が定着にしてしまった理由の一つだ。

 例えば、今回のミートショックで考えてみよう。各社が値上げに踏み切る中で、「企業努力で価格据え置き」のステーキチェーンがあったとしよう。輸入牛肉の価格高騰や原油高の影響を、仕入れ先や仕入れる量を変えたりするなどの工夫で乗り切ったのである。

 そんなニュースを聞くと、おそらくほとんどの人は「お客のことを第一に考える努力で素晴らしい!」と称賛するだろうが、ちょっと冷静になっていただきたい。確かにこの企業は努力によって「値上げ」を回避することはできているが、それと引き換えに企業としてやらなくてはいけない大事なことを犠牲にしている。

 それは「賃上げ」だ。

 ミートショックで打撃を受けているのは、この企業の従業員も同じだ。彼らも仕事が終われば、1人の消費者になるからだ。原油高の影響で肉以外、さまざまなものが値上げされている。こんな状況で、給料が据え置きならば当然、従業員の家計は苦しくなる。お客のために企業努力をするというのなら、従業員のためにも賃上げ努力をしないと理屈が合わない。

 なぜか。労働者の家計が苦しくなれば、消費が冷え込み、景気が悪くなるという、負のスパイラルが起きる。社会の中で経済活動をする法人としては、従業員の賃上げをしないことはまわりまわって自分の首を締めることになるのだ。

 しかし、先ほどのステーキチェーンはそれをあっさりと放棄している。輸入牛肉の価格高騰や原油高の影響を、仕入れ先や仕入れる量を変えたりするなどの工夫でチャラにできたとしても、従業員とその家族の生活水準を維持するには、「値上げ」に踏み切らなくてはいけないはずだが、それを見事にスルーしている。

●「牛丼型労働」が定着する日本

 言い方によっては「社員一丸となってお客さまのために値上げをしなかった」と美談にすることもできるが、やっていることを冷静に俯瞰(ふかん)すれば、値上げを回避するために「実質的な賃下げ」で労働者を犠牲にしているだけだ。もっと厳しい言い方をすれば、搾取である。

 「さっきから聞いてりゃ理想論ばかりじゃないか。賃上げをした結果、会社が傾いて失業するよりもマシだろ、会社がつらいとき、社員が我慢をして乗り切るのは当たり前だろ」

 滅私奉公カルチャーの強い日本では、どうしてもこういう意見が大多数を占めるが、これも「牛丼型労働」が定着する日本特有の思想だ。もちろん、世話になっている会社のために献身的に働くのは、さまざまな国でも見られる普遍的なものだ。

 しかし、世界では仕事とは「生活するために金を稼ぐ」というものなので、経済環境が厳しくなる中で、賃上げもしてくれないような場合、労働者は見切りをつけて、条件がさらにいい職を探すのが普通だ。経営者もそれを分かっているので、率先して「賃上げ」と「値上げ」に踏み切る。

 10月25日に放映された『Mr.サンデー』(フジテレビ系)には、米国の企業経営者が登場して、コロナ禍の中で「優秀な従業員を奪われたくない」という理由などから賃上げや値上げに踏み切った理由を語っている。

 例えば、フィラデルフィアのファストフードチェーン「ヒップシティーベジ(HipCityVeg)」は、全店舗で平均12ドルだった従業員の時給を、最低賃金の15ドル(約1700円)以上も上げた。そのせいで主力商品であるバーガーは25セント(約28円)の値上げになった。

 吉野家の牛丼は39円値上げで、マスコミが取り上げるほどの大ニュースになっている。このファストフードチェーンも頭を抱えているはず、と思うだろうが、CEOはまったくケロッとしてこんなことを言っている。

 「実際多くのお客さんは、フェアな最低賃金を支給していると分かったら、“バーガー1個に追加で25セントを支払うことはかまわない。私たちのレストランでもっと頻繁に食べる”と言ってくれたんです」

 このCEOだけではない。世界の経営者はどちらかといえば、こういう反応のほうがノーマルだ。「賃上げ」や「値上げ」は企業をより成長させるエンジンにしているのだ。

 「企業努力を続けてきましたが、もう限界なので39円値上げします。え? 賃上げ? いや、減税してくれたり、景気がよくなったりしたら、ちょっとは考えてもいいですけど」なんてことを悪びれなく言えてしまう、日本の経営者のほうが異常なのだ。

●「企業努力」という言葉が罪深い

 なぜこうなってしまったのか。デフレが悪い、消費税が悪い、新自由主義が悪いといろいろあるだろうが、筆者は「企業努力」という言葉が罪深いと思っている。

 われわれ一般庶民は原料や原油が高騰している中で、企業側が努力して価格を低く抑えていることを脊髄反射で「良いこと」だと思ってしまう。努力とは常に正しく、美しいものだと学校や親から洗脳をされてきたからだ。

 しかし、そんな美辞麗句を並べるわりに、何をどのように切りつめて、何を犠牲にしているのか、というような努力の具体的な内容は明かされない。

 原料や原油が高騰している中で価格を抑えるということは、その代わりに別のコストを圧縮していることだ。それが仕入れの方法や業務の効率化などならばまったく問題ないが、ほとんどの企業はそれだけにとどまらず、「人件費圧縮」をしれっと含める。

 つまり、厳しい経済環境になっても従業員を低い賃金で我慢をさせているのだ。世間に対して「値上げしないでがんばります」と誠実さをアピールをする裏で、身内の労働者には「賃上げ? そんなもん今の状況でできるわけねーだろ」と冷酷に言い放つ。そういう醜悪な現実を見事にオブラートに包んでくれている便利な言葉が、「企業努力」ではないか。

 ちょっと前、こういう「企業努力」という言葉の胡散(うさん)臭さが浮き彫りになった騒動があった。

 19年9月30日、『朝日新聞』の消費増税に関するチラシが炎上した一件だ。

 このチラシには、「ASA」のヘルメットをかぶった新聞配達員とともに、「日頃は朝日新聞をご愛読いただきありがとうございます。消費増税後も変わらない価格、変わらないサービスでお届けいたします」という文言が書かれていて、さらに、こんな文字がデカデカと掲げられていた。

 「朝日新聞はまだまだ値上げしないでがんばります!」

●日本人の常識を広めたのは

 これにSNSユーザーがブチギレした。当然だ。新聞は経営層が安倍晋三首相(当時)と仲良く会食をするなどして、軽減税率対象という立場を勝ち取っていた。にもかかわらず、「値上げしないでがんばる」。――どの口が言うのか、とあきれる人が続出したのである。「値上げしない」ということはとにかく良いことなので、とりあえず増税のドサクサに紛れてアピールしておけばイメージアップにつながるだろ、というような「あざとさ」も感じてしまう。

 日本の世論形成に大きな影響を与えてきた『朝日新聞』がこんな調子だ。ということは、「安くてうまいのはいいことだ」「企業努力で値上げしないのは素晴らしい」という「安さ原理主義」ともいうべき価値観を広めた「犯人」はマスコミとしか思えない。

 「企業努力とは賃上げをすること」という日本の新たな常識を広めていくには、まずはこのような旧態依然としたマスコミに退場していただくことから始めるべきかもしれない。

(窪田順生)

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