「あんなの、週刊誌じゃねぇよ」。辣腕で鳴らした総合週刊誌の元デスクが酎ハイをグイとあおれば、
「同感」と、フリーのベテラン記者がうなずいて、
「あの食品がダメ、この薬がアブナイ、はてまた死ぬ前の手続きがどうしたなんて大特集を毎週読まされたんじゃ、気が滅入っちゃうよ」
「まさにその通り」。女性週刊誌で「鬼」と呼ばれた元編集長が引き取って、「週刊誌はスキャンダルが勝負。斬った張ったで俺たちはメシを食ってきた。健康ネタ、終活ネタは、新書かムックのテーマだ」
一同、大きくうなずき、それぞれのグラスで氷がカラコロと音を立てた。今年初め、気の置けない仲間と一杯やったときのことだった。
私は総合週刊誌の記者として十余年を過ごした。現役批判はOBの常とは言え、総合週刊誌の全盛時代を知る彼らだけに、一杯やると必ず批判や苦言が飛び出す。
「誌面に勢いがない」「現場を踏まなくなった」「企画に工夫が足りない」
だが、こうした批判や苦言は、週刊誌ジャーナリズムという大枠でのこと。誌面づくりは時代によって変化はしても、「ニュース&スキャンダル」という基本は変わらない。クルマにたとえればマイナーチェンジのようなものだった。
ところが最近になって、いきなりフルモデルチェンジ。しかもセダンがワンボックスカーになったようなもので、元辣腕デスクが「あんなの、週刊誌じゃない」と憤慨するほどの変わりようなのである。
週刊誌の変化ぶりは、電車の吊り広告や表紙を見れば一目瞭然だ。目玉の特集記事が「健康」と「終活」になってきた。私の手元にある週刊誌の見出しを拾うだけでも、「食べてはいけない『外食チェーン』」(週刊新潮)、「専門医10人『私は絶対に飲まない薬』」(週刊ポスト)、「間違いだらけの『死後の手続き』」(週刊現代)、「30の症状に効く『最強食』」(週刊文春)…。
タイトルこそ扇情的な週刊誌タッチだが、これらは「実用記事=ためになる記事」であって、週刊誌が王道としてきた「ニュース&スキャンダル」、すなわち「ためにならない記事」の対極に位置するものなのである。
むろん週刊誌に「健康」「終活」の特集があってかまわない。必要な情報でもある。だが、このテーマが毎週、しかもメジャー誌がこぞって掲載するとなると、これはもう「週刊誌のフルモデルチェンジ」である。先に述べたが、クルマにたとえれば一車種だけのモデルチェンジではなく、クルマ業界全体が、売れ行き不振のセダンからワンボックスカーに右へならえしたのと同じということになる。
「健康ネタ」をメーンで打ち出したのは、『週刊現代』が最初だったと記憶する。大胆な変身に戸惑いはしたものの、高血圧の薬を長年服用している私は、「高血圧の薬は不要」といった見出しに目が吸い寄せられた。 これまで総合週刊誌には見向きもしなかった愚妻も、「あら、血圧の話?」と言いながら、そばからのぞき込んでいる。健康は大いなる関心事なのだ。
さらに「終活」が「健康」の延長線上にあることから特集がこれに向かうのは必然で、辛気くさいテーマではあるが、実年・熟年が興味を引かれることは確かだ。
「あんなの、週刊誌じゃねぇよ」と、OBが毒づいたところで、数字は正直。週刊現代は「健康」と「終活」を両輪として部数を伸ばし、2019年1月の雑誌月間売上冊数で、『週刊文春』を抑えて10位に躍進(日販調べ)。「文春砲」を炸裂させても、週刊現代の「健康&終活ガイド」には部数では勝てなかったということになる。
かくして、総合週刊誌は雪崩を打つようにして「健康&終活ガイド」に走り、いまも走り続けているということになる。
私に言わせれば、総合週刊誌は「幕の内弁当」である。スキャンダルがメーンのおかずで、「海老フライ」や「鶏の唐揚げ」がそれに当たる。ニュースやハウツーがサブメーンの「卵焼き」「焼き魚」「天ぷら」で、連載小説やコラムが「煮物」「漬け物」といった添え物ということになる。
細々と何種類もおかずが詰めてあるのは、人によって好き嫌いがあるからだ。言い換えれば、好き嫌いにかかわらず、幕の内弁当は、そのすべてを購入しなければならない。
「私はニンジンが嫌いだから、それを外して卵焼きを増やして」というわけにはいかない。ここがウナギ弁当やアナゴ飯、イカ飯といった単品弁当と違うところで、幕の内弁当が総合週刊誌なら、これらは専門雑誌ということになる。
さらに、インターネットで閲覧する記事はビュッフェである。嫌いなものはスルーして、欲しい食べ物を欲しいだけ皿に取る。「ニンジンが嫌いだから、それを外して卵焼きを増やす」ということが、いくらでもできる。ITの進展、価値観の多様化、そしてそれを認める社会は、生活のすべてにおいて「ビュッフェ時代」になったと言っていいだろう。
こう考えると、幕の内弁当の総合週刊誌は、おかずに何を詰めるかは頭の痛い問題になってきた。ビュッフェ時代にあっては、いくらおかずの品数を増やそうと、従来の「押しつけ」では多くの読者を引きつけるのは難しく、部数はじり貧である。売れ筋だったスキャンダル砲をブッ放してみても、テレビのワイドショーが素早くそれを横取りする。リアルタイムで面白おかしく放送するため、たちまち霞(かす)んでしまう。
実際、ある総合週刊誌の編集長は、「ニュースもスキャンダルも、テレビとインターネットには太刀打ちできない。読ませるものに活路を見いだすしかない」と言い切る。
週刊現代が「健康テーマ」を打ち出したとき、「老人雑誌化」したと業界で陰口を叩かれたが、超高齢時代を背景に大当たり。弁当にたとえれば、「海老フライ」や「鶏の唐揚げ」といった脂っこい総菜を引っ込め、「ヘルシー&栄養」を謳(うた)ったおかずをメーンにしたら大いに売れたということになる。
つまり、総花的な幕の内弁当に、売れ筋の単品弁当をメーンに組み込んだのが、最近の総合週刊誌ということになる。 売れてナンボとなれば、総合週刊誌も読者のニーズに応じて変わっていかなければならない。だが、読者は気まぐれだ。気まぐれを相手にするのは、決して追いつくことのない影を追うようなもので、必ず息切れする。
これから総合週刊誌はどこへ向かうのか。かつて大部数を誇った『週刊明星』、『週刊平凡』は時代の変化の中で消えていった。スキャンダル砲の健闘を期待しつつも、「健康&終活テーマ」に舵を切った総合週刊誌は、まさに自身が〝終活〟を始めたような気が私はするのだ。
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