「最低でもGMARCHには行きたい」「Fランに行く意味がわからない」…予備校講師が指摘する“大学名で人をジャッジする”人たちの“恐るべき勘違い”

予備校の現場で指導をしていると、生徒から「Fランに行く意味がわからない」「あの先生◯◯大出身だし……」などといった声が聞こえてくる機会にしばしば出会う。中には、「友達が◯◯大に進学したから関わるのをやめた」「あの大学行っているくらいなのだからどうしようもない」といった声を聞くことすらある。

 改めて強調するまでもないが、これらの発言はまだ受験を迎えていない(=少なくともその年度はどの大学にも合格していない)受験生からも出てくるのである。

 こうしたケースは極端かもしれないが、予備校や塾、学校の現場で受験生の口から語られる「最低でもGMARCHには行きたい」という言葉は風物詩と言っても過言ではないほどよく耳にするものである。それにしても、「“最低でも”GMARCH」という言葉には不穏な響きがある。いったい彼らは“学歴(*1)”をどのように捉えているのだろうか。

*1 どの種類の学校で学んできたかを表す「修学歴」ではなく、学校の序列を反映した「学校歴」を指す

変わりゆく高偏差値序列

「高学歴」とされる指標の一つに、大学の偏差値序列がある。つまり、大学を偏差値順で並べた際に上位に来る大学が高学歴だと考えられているのである。しかし、この認識は間違いだ。

 河合塾が発表した2024年度入試難易予想ランキング表によれば、“GMARCH”に含まれる学習院大学(文)[55.0-57.5(*2)]よりも明治学院大学(心理)全学部入試[60.0]の方が少なくとも現時点での数字上の難度は高いケースも想定される。

*2 合格可能性が50%になる偏差値。数値に幅があるのは試験方式による違い

 また、前年度のデータにはなるが、ベネッセが公開している「2023年度入試対応 私立大学・学部の偏差値一覧」によれば、偏差値70のグループには以下大学・学部が含まれる。

●青山学院大学(社会情報)

●学習院大学(経済)

●中央大学(商)

●津田塾大学(総合政策)

●東京家政大学(栄養)

●法政大学(経済・社会・人間環境)

●中京大学(心理)

●南山大学(国際教養)

●名古屋学芸大学(管理栄養)

●立命館大学(法)

●関西大学(商・社会)

●関西学院大学(法)

 そしてこの1つ下の偏差値69のグループは以下の通り。

●学習院大学(文)

●成蹊大学(経済)

●中央大学(文)

●東京理科大学(経営)

●法政大学(スポーツ健康)

●武蔵大学(社会)

●立教大学(コミュニティ福祉)

●南山大学(人文・外国語)

●京都女子大学(家政)

●同志社大学(神)

●立命館大学(政策科・産業社会・食マネジメント)

●関西大学(政策創造)

●関西外国語大学(国際共生)
●関西学院大学(文・社会・教育)

 イメージと異なる大学(学部)があったという人もいるのではないだろうか。

 これらは異なる学部を比較しており、信頼に値しないという意見もあるかもしれない。だが、まさにそこにこそ「高学歴=有名大学=高偏差値」信仰の落とし穴があるといえるだろう。

 たしかに偏差値で序列をつけてみれば、関東の文系大学であれば早慶上智やGMARCH、関西であれば関関同立と称される大学群、理系であればこれらに加えて東京理科大学といった大学の各学部が上位に並んでいるケースが多いが、中にはこれまで下位に位置付けられていた大学・学部が間に入り込んでいる場合も珍しくはない。

「高偏差値だと思われる大学名」だけで大学の序列を語る“落とし穴”

 そもそも、偏差値というのは換算のもとになった模試や算定基準によっても揺れがあるものであり、さらには同じ大学でも学部や学科、試験方式によって異なるものである。

 たとえば、先述の河合塾公開のデータを用いれば、文・人文学系の入試難度は上から早稲田大学国際教養学部が偏差値70.0、国際基督教大学(A方式)、早稲田大学文学部(一般・英語4技能入試)・文化構想学部(一般・英語4技能入試)がいずれも67.5と並べられている。

 また、河合塾のものと同様に合格可能性50%のラインのデータを公開している東進のもの(2023年度版)では、早稲田大学文化構想学部(共通テスト併用型)が偏差値71、早稲田大学文学部(共通テスト併用型)が偏差値70、国際基督教大学(A方式)が偏差値69と並んでいる。

 それに対してベネッセの発表している偏差値一覧では慶應義塾大学(文学部・法学部・総合政策学部・経済学部)、国際基督教大学、上智大学(国際教養学部)、早稲田大学(法学部・政治経済学部)がいずれも偏差値83、続いて早稲田大学(商学部)が偏差値82と、上位大学・学部の序列どころか数字自体も大きく異なっているのである。

 こうした事情を無視してその大学を一括りに考え、「高偏差値だと思われる大学名」だけで大学の序列を語ることにさほどの意味はないのではないだろうか。

「高学歴の人は、仕事に取り組む時でも努力の幅が違う」は本当か

 一方で、こんな意見も耳にした。友人の経営者の弁である。

「高学歴の人は、仕事に取り組む時でも努力の幅が違う。高学歴の人はそうでない人に比べて『努力した』の基準が高くて、成果が出なければ『努力不足』だと思っていることが多いけれど、高学歴ではない人は『自分は頑張ったのに評価されない』と考えがち」だと言うのである。

 言いたいことはよくわかる。いわゆる難関大学を目指し、合格していった受験生や合格には届かなかったものの最後まで努力し続けた受験生を見ていると「これだけ努力し続けられるのか」と感じさせられることもしばしばである。

 しかし、これもやはりどの大学を卒業したかというよりも、どの大学を目指してどれだけ本人が努力できたかという点に左右される。あくまで「難関大学を本気で目指した経験を持つ学生は努力し続けられる可能性が高い」というだけのことだろう。

 もちろん、企業としては本人の能力や伸び代のわかりやすい指標として「学歴」というのを用いることがあるのは理解できる。ただ、先に見た通り偏差値というのは曖昧なものであり、採用側のイメージと現在の大学入学難度が一致しているとは限らない。「この大学は難関大学」ならまだしも、「この大学は簡単だ」と杓子定規に考えるのは注意が必要である。

早稲田大学に合格して明治大学へ進学した学生も

 このように、「高学歴」というのは単純に語れるものではない。もちろん高学歴とされる大学に進学したいという受験生心理は理解できる。就職活動で問われると言われる「学生時代に力を入れたこと(通称「ガクチカ」)」も、ある一定水準以上の学歴フィルターが前提になっている事情もあるだろう。

 しかし、あえて理想を語るなら、受験生やその関係者には偏差値やイメージ“だけ”で大学を選ぶのではなく、近い将来の自分に思いを馳せ、その大学で何をしたいのか、自分の興味関心は一体どんなところにあるのかといったことを冷静に、一歩踏み込んで考えてみてもらいたい。そして、大学に進学した後は偏差値やイメージだけに頼らない人生を歩んでいってほしいものだ。

 最後にある事例を紹介したい。4年前、千葉県のとある塾で指導していた生徒にこんな受験生がいた。仮にSとしよう。Sは高3のはじめに偏差値30台の、自他共に認めるいわゆる低学力層でありながら「早稲田に行きたい」と口にしていた。そして、1年間にわたって凄まじい努力を重ね、Sはついに早稲田大学の合格を手に入れた。1年前に掲げた目標を見事に達成したのである。

 ただ、Sはこの1年間で学力以外にも大きな変化を遂げていた。受験勉強を続ける中で、自分のやりたいことと出会い、言うなれば自分の軸ができたのだ。その結果、受験を終えたSはずっと目標に掲げていた早稲田大学ではなく、明治大学を進学先に選んだ。周囲からは当然のように早稲田への進学を勧める声が多く聞こえる中、彼は偏差値だけにとらわれない選択をしたのである。

 Sのエピソードは現代社会において特殊なケースに感じられるかもしれないが、このような選択をする受験生が存在することを頭の片隅に置きながら、私たちの生きる「学歴社会」を考えていきたいものだ。

(羽場 雅希)

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