宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎では1日、町関係者や語り部たちが東日本大震災の記憶と教訓を伝承する決意を新たにした。訪れた人々は赤茶けた鉄骨を見つめ、町職員ら43人の命を奪った巨大津波の威力を目に焼き付けた。
佐藤仁町長は午前9時ごろ、庁舎に花を手向けて黙とう。「犠牲になった人の魂はずっとここにあり、町の復興を見守ってくれたんじゃないかな」との思いを明かした上で、「防災や減災に庁舎を役立て、未来の命を守れるように活用する」と力を込めた。
共に献花した星喜美男町議会議長は「震災当初はやり場のない怒りが向けられたが、庁舎がなくなれば(被災の事実が)忘れられる」と理解を示した。
「いつも近くを通っていた庁舎。あの高さを超える津波が来たなんて信じられませんでした」。庁舎周辺では午前10時ごろ、町観光協会の語り部の女性が来訪者を案内していた。「人が亡くなった建物は他にもあるけれど、未来の命を守るために一つ証しを残すことにしたのです」と町有化の意味を解説した。
小学4年の娘(10)と聞き入った川崎市の保育士坂口尚子さん(44)は「折れ曲がった柵などが生々しく残っていて衝撃的だった。自分の命は自分で守るしかないこと、生きていることの尊さなどを娘に感じてもらえたはずだ」と話す。
周辺には終日、町外から訪れる人々の姿が絶えなかった。福島県棚倉町の農業男性(69)は「ここまで津波が来たんだと目で見て確かめられる。防災の大切さを後世に伝えるために残すべき建物だ」と強調した。
近くにある震災伝承施設「南三陸311メモリアル」では、13年前のあの日何があったのか、庁舎で生き残った職員らの証言映像などを館内で流し続ける。
震災当時は町職員だった施設顧問の高橋一清さん(63)は「解体を願う遺族、見るのがつらい町民の思いと引き換えに保存が決まったことを忘れてはならない。悲しい出来事があったこと、庁舎の裏側にある思いこそ大事に伝えたい」と自らに言い聞かせた。
県有化から8年半、遺構として保存
宮城県南三陸町は1日、東日本大震災で被災した旧防災対策庁舎の所有を県から引き受けた。庁舎は町職員ら43人が津波の犠牲となり、保存か解体かを巡る議論を経て、約8年半にわたり県が所有していた。今後は庁舎が建つ震災復興祈念公園と共に町が維持管理し、災害への教訓や命の尊さを伝える震災遺構として後世に残していく。
県が町に譲渡したのは、2015年12月から所有していた高さ約12メートルの骨組みを残す庁舎本体と、新たに設置した庁舎を取り囲むフェンス。町有の敷地を県が借りる使用貸借期間も1日に終了した。いずれも契約は6月28日付。
県有期間に県が約1億円をかけて庁舎の補修や周辺の排水工事を実施したため、少なくとも元々の県有期限だった31年3月まで、町は維持管理費の支出を必要としない見通しという。
庁舎を町有化した1日朝、現地で献花した佐藤仁町長は取材に「考える時間を与えてくれた県に感謝する。今日からは町が管理の責任を負い、子どもたちが防災や災害を学ぶ場所にしていきたい」と語った。
防災庁舎は旧志津川町時代の1995年、当時の町役場の隣に完成。被災後は「震災を思い出すので見たくない」との遺族の声を重視し、町は13年9月に一度解体を決めた。その後、保存に前向きな県が震災後20年間の県有化を提案。約6割が賛成したパブリックコメント(意見公募)などを踏まえ、佐藤町長が15年6月に受け入れを表明した。
佐藤町長は今年3月1日に記者会見し、町有化と保存を発表。庁舎が震災の記憶と教訓を伝える役割を果たしていることや町民感情の変化、自らも庁舎で被災した一人として自身の任期中に決断したいと考えたことなどを理由に挙げた。
5月下旬には町が町民向けの意見交換会を開き、約80人が出席。発言者の多くが庁舎の保存判断に理解を示す一方で、「庁舎を通じて何を伝えるのか、今後も議論を積み重ねるべきだ」との訴えが相次いだ。
村井嘉浩知事は1日の定例記者会見で「ここで生き残った方もいれば亡くなった方もいる、他の震災遺構と比べても重い意味を持つ施設だ。同じような災害が起きた時に命を救えるようにするため、大切に保存し、多くの人に伝承してほしい」と話した。