「森永」のお菓子の歴史が一堂に

ミルクキャラメル、チョコボールなど森永製菓のお菓子にかかわる資料など500点以上を集めた特別展「森永のお菓子箱 エンゼルからの贈り物」が、東京都渋谷区の「たばこと塩の博物館」で開催されている。キャラメルは戦前、大人への需要を広げるため「煙草(たばこ)代用」のキャッチフレーズで売られていたことなど、お菓子の知られざる歴史が分かり興味深い。平成24年1月9日まで。
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記事本文の続き 森永製菓は明治32年、アメリカで西洋菓子の製造技術を学んだ森永太一郎氏が赤坂に、わずか2坪の西洋菓子製造所を創設したのが始まり。当時、物品が西洋化していく中にビジネスチャンスを見いだした人は多かったという。目玉商品のミルクキャラメルは大正3年、東京大正博覧会特設売店で発売され、爆発的な人気を呼んだ。
 12年に関東大震災が発生した直後には、被災者たちへの救援活動のためドーナツやミルクを無料配布。当時の様子を記した営業部日誌も公開されている。
 昭和7年には、女性販売促進員「スヰートガール」が登場。百貨店などで活躍した。日中戦争が始まった12年に募集中止となったが、時代を映す鏡としてユニークだ。
 終戦直後は極度の物資不足の中で菓子製造の原料も厳しく統制された。しかし戦災を免れた各工場ではお菓子の代わりにペニシリンや靴クリームなど菓子以外の商品開発を開始。逆境に立ち向かった“企業魂”は不況にあえぐ現代人の参考になることが多そうだ。
 高度成長期時代には、チョコレート「ハイクラウン」シリーズを発売。「ハイ」は当時、高品質や現代的な新感覚をイメージさせる呼称として人気があったという。
 キョロちゃんマークでおなじみの「チョコボール」は40年、「チョコレートボール」として発売された。箱の取り出し口が、金色の場合は1枚、銀色の場合は5枚で「まんがのカンヅメ」と交換できた。後に「おもちゃのカンヅメ」となり今に続く。
 「なかなか当たらない」と子供時代、悔しがった記憶がある人も多いだろうが、展示では、これらを一堂に集めたコーナーも。
 「たばこと塩の博物館」の学芸員、鎮目(しずめ)良文さんは「どの資料も、その時代の世相を映している。時代や歴史を感じられるのは創業110年を超える企業ならでは」と開発している。
 10時~午後6時。入館料は大人100円、小中高生50円。月曜休館。(電)03・3476・2041。

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