「神ってる」流行語大賞受賞に違和感が噴出するワケ 皆が納得する言葉はもう生まれない

■「流行語」への強烈な違和感

毎年、年末になると発表される「新語・流行語大賞」。年の瀬の多くのイベント事がそうであるように、この賞は「あったあった、こんな言葉」と1年を思い返せるところに楽しみがあるはずだ。

しかし世の評判を見ると、最近は「こんな言葉は流行っていなかった」「もっと他に流行った言葉があった」など、違和感を表明する人が増えている。なぜだろうか。

今年、2016年の大賞は「神ってる」に決まった。この言葉の「語源」は、プロ野球・広島東洋カープの緒方監督が6月18日の試合後に報道陣の取材に対して使ったのが最初だという。大賞になったことで、広島の鈴木誠也選手が表彰された。

広島カープの今年の快進撃はたしかにすごかった。しかし上記のエピソードを、どれだけの人が知っているのか?

ちなみに昨年、2015年の大賞となった語は「トリプルスリー」で、これもプロ野球がらみの言葉だった。これもプロ野球を見ていない人には何のことやらサッパリの言葉だ。

「ユーキャン新語・流行語大賞」公式サイトより

いや、ひょっとしたら野球に興味がある人でも、スポーツ新聞などをマメに読んでいる人しか知らない言葉なのではないか。知っていたとしても、別にこの言葉が「新語・流行語」として世間を賑わせたという印象はなさそうだ。

だいたい、なぜかこの賞に選ばれる言葉にはスポーツがらみが多い。2014年のトップテン語となった「レジェンド」も、スキージャンプ競技の葛西紀明、ゴルフの青木功、プロ野球の山本昌広が表彰された。しかし、その功績はともかく、彼らをまとめてレジェンドと呼ぶことが広く一般に知れ渡っていたわけではない。

2013年の選考委員特別賞にいたっては「被災地が、東北が、日本がひとつになった 楽天、日本一をありがとう」が受賞した。

東日本大震災を機に奮起した楽天ゴールデンイーグルスが3年後に日本一となったという感動的なエピソードはともかくとして、だからといってこの長い文句が「新語・流行語」として世間をにぎわせていたわけではない。

この受賞に際しては、選考委員会が「この活躍を、歴史を証明する事象として後世に残したいと考えた」と説明した。だが、この賞が後世に残すべきなのは第一に「言葉」だ。「活躍」を世に残したいからといって、流行してもいない言葉を受賞させるというのは本末転倒、かつ分不相応ですらある。

そもそも「新語・流行語」とは何を指すのか。

主催しているユーキャンの解説によれば、「この賞は、1年の間に発生したさまざまな『ことば』のなかで、軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選ぶとともに、その『ことば』に深くかかわった人物・団体を毎年顕彰するもの」だという。

しかし、実際の中身はどうだろうか。上記のような例だけでなく、たとえば2016年でも「おそ松さん」「君の名は。」「シン・ゴジラ」「ポケモンGO」などのように、単純にヒット作品のタイトルにすぎないものがノミネート語とされることが頻繁にある。

「2016年ヒット番付」などの企画なら違和感はない。だが「新語・流行語」と言われると首をひねりたくなる。作品が流行したにしても、その作品名が「新語・流行語」の定義にマッチしているかというと、大いに疑問だろう。もちろん、各作品の内容が「軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって」いるとも限らないが…。

■たしかに流行はしたけど…

同じことは「斎藤さんだぞ」「PPAP」のような語についても言える。

もともとお笑い芸人のギャグは毎年のようにノミネートされていて、過去の受賞語を見ると「フォーー!」(2005年)「グ~!」(2008年)「ラブ注入」(2011年)「ワイルドだろぉ」(2012年)「安心して下さい、穿いてますよ。」(2015年)など、懐かしさの漂うギャグが並んでいる。

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これらが「流行」したのは間違いないし、受賞した芸人は一発屋になるというジンクスまであるという。

しかし、それならなおさら、単なる「流行」に過ぎないということになるだろう。「軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって」いるかどうかなど関係なく、その年にウケていたギャグを何となく受賞させているだけではないのか。

「SMAP解散」や「センテンススプリング」にしたって、芸能界の有事ではあるにせよ、どこが世相を衝いているというのか。

「こんな企画はお遊びだから放っておけばいい」という人もいるかもしれないが、筆者はそうは思わない。時代の空気を記録にとどめることには、十分に文化史的な価値があるからだ。しかし、そのわりにユーキャンの「新語・流行語」の定義や選考基準はあいまいすぎる。

■ずっと迷走していた

とはいえ、実のところ「新語・流行語大賞」がおかしくなったのは近年ではない。昔からそうだったとも言えるのだ。

たとえば1984年の第1回では所ジョージの「す・ご・い・で・す・ネッ」というセリフや、ドラマ「スチュワーデス物語」の「教官!」というセリフが「流行語部門・大衆賞」になっている。つまり、第1回からちまたで流行しただけの言葉が受賞しているわけだ。

ただ、ここで注目すべきなのは、当時は「新語」と「流行語」が区別されていたという事実だ。この時はまだ「流行語部門」のほうは単なる「流行りの言葉」でよく、「新語」のほうは当時の世相を反映した言葉を選ぼうという方針があったのだ。

第一回の「新語」で金賞になったのは大ヒットしたNHKの朝ドラ「おしん」にハマる日本人を評した「オシンドローム」という言葉だ。たしかに時代性を捉えた言葉になっているし、ドラマのタイトルそのままでもない。

しかし、こうした明確な方針が感じられるのは、最初だけである。

第2回の「流行語部門・大衆賞」となった「おニャン子」がアイドルグループやテレビ番組名に由来するのはギリギリ許せるとしても、第3回になると「マンガ日本経済入門」など、どう考えてもベストセラーの書名でしかないものが「流行語」として受賞している。たったの3回目で、もうヒット番付と区別が付かなくなっていくのだ。

しかも、選定基準は時代を追えば追うほど混乱していく。たとえば1992年の新語部門・銀賞は「ひとめぼれ」。新しいブランド米の開発にまつわる言葉だから世相を反映しているとは言える。

だが、ヒット商品の名前なら「流行語」のほうがふさわしいのではないか? また1993年、第10回の流行語部門・金賞となったのは「規制緩和」だ。こちらは世相を感じさせる言葉だから「新語」のほうに入れるべきではないのか?

■生まれない「流行」

選考委員会もこうした混乱を認識していたに違いない。1994年からは現在のように、「新語・流行語」が統一された形でトップテンが発表されるようになった。

この事実は、とても興味深い。なぜならこれは、90年代の半ばから、日本人は「時代を反映しているもの」と「単に流行っているもの」の区別が付かなくなった、ということなのだ。

別の言い方をすると、それまでは、まだ日本人の大多数が「今はこういう時代なのだ」という認識を共有し、一体感を感じることが可能だった、ということになる。

しかし90年代は昭和が終わり、不況となり、テレビや雑誌などのマスメディアも求心力を失った時代の幕開けだ。やがてはオウム真理教や阪神・淡路大震災など社会不穏を感じさせる出来事が増え、インターネットまで普及して、社会の構成員はどんどんバラバラになっていく。

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そうした中で「現代」とか「日本」というものに対するイメージは、各人で異なるようになってしまった。自分が「今年はこんな年だった」「あれが流行した」と思っても、他人は全くそう思っていなかったりする。つまり、どうかすると「流行」というものが成り立ちにくくなってしまったのだ。

だから「新語・流行語大賞」も「時代を反映しているもの」と「単に流行っているもの」を、うやむやな形で一緒くたに扱わざるを得なくなる。あるいは一緒くたにしたところで、日本人の誰もが見て納得のいく言葉を並べられるはずもない。

となると、とりあえず大ヒットしたとされる商品名を上から順に並べていくしかなくなる。そういうことかもしれない。

■誰も「社会」を語れない

近年は「アベ政治を許さない」「SEALDs」「保育園落ちた日本死ね」などの語がノミネートされたり、あるいは受賞したことで、政治色が強いとか、特定の政治思想に偏っているという意見もあったという。昨年まで選考委員だった鳥越俊太郎氏の意向が強かったせいではと言う人もいる。

しかし過去の受賞を見ると、第1回の新語部門・銀賞の「鈴虫発言」から2013年のトップテンに入った「アベノミクス」にいたるまで、この賞には政局にまつわる言葉が常にある。

昔はそれに批判が寄せられることは少なかった。それは、社会全体が政治について、だいたい似たような考え方をしていたからに違いない。

ところが近年では、ことさら政治性や特定の政治思想へ偏っていると感じてしまう。そのこと自体が、この国のものの見方がひとつにまとめられなくなってしまったことを意味しているのではないだろうか。

だいたい選考委員は、鳥越氏はともかくとして、姜尚中、俵万智、室井滋、やくみつる、箭内道彦らである。政治信条の偏りを問う前に、そもそも彼らに現代のことがわかっていると言えるのだろうか。「PPAP」やら「聖地巡礼」のことを、どこまで評価できるのか。

かといって、では誰であれば今の社会全体を語るのにふさわしいとも言えない。

ならば、一般からの多数決で決めればいいという人もいるだろう。そういう意見が出てくるのは非常に理解できる。世論がバラバラでまとまりきらなくなった結果、投票によって白黒つけてしまおうという発想は、他ならぬ政治の世界で着々と進行しているからだ。

そういう意味では、今年のノミネート語で言えば「EU離脱」とか「トランプ現象」というのは、皮肉にも世相を反映した言葉だったと言えるかもしれない。

しかし、それがさらなる混乱と騒動をもたらすことについても、既に周知の事実である。それは、数の暴力にものをいわせる時代が到来しているという意味だ。歓迎すべき時代性ならば、喜んで賞をあげたいところだ。しかし、そうもいかない。悩ましい時代である。

 

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