「個人情報が漏えいするかもしれないから、PCは職員室の外に持ち出せない。無線LANも使えず不便」──関東圏のとある小学校で教師をしているナカガワさん(仮名)は、勤めている学校のIT環境についてこう話す。
「生徒1人1台のPC」を目指す文科省の「GIGAスクール構想」が一段落し、教育のIT化がようやく動き始めた。一方でナカガワさんが話すように、ITによる教師の業務改善や働き方改革は、まだ本格的に始動しているとは言い難い。
「自治体によって現場の課題は多種多様。それぞれ問題が個別化されているので、一括した対応が非常に難しい」──慶應義塾大学大学院経営管理研究科の元特任教授で、業界団体「日本パブリックアフェアーズ協会」の理事として教育ICTに関する政策提言などを行う岩本隆さんは、教育現場の課題についてこう話す。
教育そのもののIT化が進み始める一方で、小中学校の先生たちが使うIT環境が変わらないのはなぜか。教師や教育委員会、自治体といったさまざまな関係者のうち、改善に向けた意識改革が必要なのは誰なのか。ナカガワさんの話や岩本さんの話から、問題の本質を探る。
情報漏えい対策でがんじがらめに 先生たちの働き方
ナカガワさんによれば「職員室でしかPCが使えない」「無線LANが使えない」といった課題は、いずれも情報漏えい対策に起因するものという。例えばPCは職員室に物理的に固定されており、持ち出しには都度許可を取る必要がある。
無線LANについては「校内に2種類のネットワークが存在し、業務に応じてそれぞれを使い分ける必要がある。ただ、いずれも有線で接続する決まり」(ナカガワさん)という。小中学校の中には、生徒の成績や出欠など個人情報を扱うときと、外部とのメールのやりとりなどをするときのネットワークを分離しているところも多い。
中にはネットワークごとに端末を切り替えて対応している学校も見られる。ナカガワさんの学校では単一のPCで切り替えできるという。とはいえナカガワさんは業務上、職員室以外の場所で作業せざるを得ないことも多く、不便に感じるとしている。
ただし改善例も Azure活用に成功した埼玉県鴻巣市
ただ、日本全ての学校が同様の状況というわけではない。パブリッククラウドなどを活用して、教師の働き方改善に成功している学校・自治体もある。
例えばITmedia NEWSで過去に取材した埼玉県鴻巣市は、米Microsoftのクラウドサービス「Microsoft Azure」を導入・活用することで、市内の小中学校27校でPCの持ち出しを可能にしている。Azureのセキュリティ機能なども取り入れ、情報漏えい対策を維持しつつ、ネットワークごとにPCを使い分ける必要性もなくしたという。
鴻巣市の教育PR動画
鴻巣市のような成功例があるのだから、他の学校も同じようにできるのではないか──ナカガワさんに話を聞く間、記者はそう感じていた。例えば自治体が主導権を持ち、トップダウンで進めれば、実現できない話ではないはずだ。しかし岩本さんによれば、事態はそう簡単ではないという。
原因は「意思決定者が多すぎる」? 先生の働き方が変わらない理由
岩本さんは教育現場のIT環境が変わらない背景について、意思決定者が多いことが原因だと分析する。
「教育業界で悩ましいのは、(1)自治体の首長、(2)自治体の情報システム担当者、(3)教育委員会、(4)校長先生などの学校現場──それぞれに意思決定権があること。GIGAスクールは幸か不幸かコロナ禍が後押しになったが、ここが“四位一体”にならないと教育現場の情報化が進まない」(岩本さん)
しかも、IT化に向けて首を縦に振らない組織は自治体によって異なる。(2)がボトルネックになっている自治体もあれば、(4)が反対している場合もある。IT活用が進まない原因は個々の市町村によって異なるので、対応を一元化できないという。
「例えば校長先生クラスが取り組みに対してポジティブでも、教育委員会の委員長がネガティブで、キーパーソンが左遷されてしまうこともある。逆に教育委員会がポジティブでも、学校の現場側が応じないケースもある」(岩本さん)
自治体や教育委員会、学校現場がパブリッククラウド導入などに反対する理由は、立場ごとにさまざまだ。例えば自治体の情報システム担当者にとっては、クラウド活用の知見を持つ人材がいないことが足踏みの理由になるという。
「いわゆるオンプレミスとクラウドは技術が違うので、従来のSIer(システム開発事業者)が必ずしもサポートできるわけではない。専門人材は高い報酬が必要なので、民間企業のようにどんどん人を引き抜くわけにもいかない。CDO(Cheif Digital Officer)などとして非常勤で採用し、週に数日働いてもらうのがせいぜい」(岩本さん)
中でも深刻な問題を抱えがちなのは(4)校長先生などの学校現場だ。岩本さんによれば、背景にはITを活用した業務改善を実現したとしても、現場の業務がさほど楽にはならない問題があるという。
原因はいじめや不登校の生徒への対応、部活動など、対処しなければいけない問題が多すぎることだ。「教育の情報化でちょっと時間が浮いたとしても、大したインパクトにならない」と岩本さん。学校側で生徒をある程度選別できる私立校は別として、さまざまな子供を受け入れる公立の小中学校はさらに深刻になりやすいという。
「近親者にも教師がいるが、ICTへの関心は高くない。PCは持っているが、IT化よりは不登校やいじめの問題の方に頭を悩まされている様子。世間の意識も高まっているので、お金や時間はもちろん、心的なリソースもかなり取られてしまっていると思う」(岩本さん)
変わるべきは世の中の空気? 教育現場の変化に必要なのは……
意思決定者が多く、かえって意思決定ができない構造になっているという日本の教育業界。「トップダウンでやっている米国や韓国は日本より圧倒的に進んでいる。日本はよく言えば民主主義だが、悪く言えばさまざまな声を聞きすぎている」と岩本さんは指摘する。
「本音を言えばトップダウンで進めた方がいいと考えている。日本は“外圧”に弱い傾向にあるので『今やらないと世界から取り残される』といった世の中の空気ができるとトップダウンで進めやすくなるのではと思う」(岩本さん)