自分は将来、自然と偉くなるものだと思っていた。小中高と、クラスで一番勉強ができていたし、親も教師も私を特別な子どもとして扱っていたから。
しかし誰もが気づいている通り、教育課程における「いい子」と、社会における「有能な人間」は同じではない。それどころか、学校での指導に忠実であるほど、社会では「使えない人間」になってしまうケースもしばしばある。かく言う私自身が、そういうケースの典型だった。 © 文春オンライン ©iStock.com
高校受験で筑駒を蹴り、早稲田の付属に入学した後、学年成績上位者3名に支給される奨学金を得る。そのあたりが私の人生のピークだった。
34歳になった今、月収は額面で15万円ほど。勉強はできても、社会性や機転、応用力にことごとく欠ける私は、職場での人間関係を構築することができずに職を転々とし、普段は結局一文字いくらのフリーライターとして細々と活動している。
巷にあふれる「かつての神童」
一体なぜ、学校では誰より優秀だったはずの私が、社会のはみ出し者のようになってしまったのだろう。
私のこの鬱屈とした疑問は、おそらく私自身だけの問題ではない。巷にあふれる「高学歴ニート」や「東大卒フリーター」を題材としたコンテンツからも、悲惨な現状を送る「かつての神童」はこの国に数多く存在していると推察される。
「優等生の没落」が一般的事象であるのなら、もはや学校教育そのもののうちに、何か根本的な歪みが生じている可能性を考えなければならない。すなわち、「学校教育で良しとされる能力・特性」と、「社会で要求される能力・特性」との間に、矛盾・対立があるのではないか、ということである。
優等生として「使えない人間」へと育ち、自身も教育現場に携わった者の目線から、学校教育における歪みの正体に迫ってみたい。
優等生への「ひいき」が“真面目系クズ”を育てる
学校生活のなかで、優等生の人格形成に決定的な影響を及ぼしていると思われるのは、教員からの「特別扱い」である。同じ悪さをしても、優等生は叱られにくい。学校生活をテーマにしたドラマや漫画では、「教員からの特別扱いを悪用する腹黒優等生」のようなキャラクターがしばしば登場するが(「3年B組金八先生」第5シリーズで風間俊介が演じた「兼末健次郎」はいまだに印象深い)、それだけ「優等生へのひいき」に対する問題意識は肌感覚として共有されているのだろう。
実際に私自身も、「ひいきされる側」として育った自覚がある。中学生の時、私が誤って窓ガラスを割った時も、放課後に携帯をいじっているのが見つかった時も、私は注意すらされず、親にも連絡が行くことはなかった。一方で、「不真面目」と教員から見なされた生徒はしばしば携帯を没収されていたし、「いたずらっ子」のクラスメイトが窓ガラスを割ったときには、教員から烈火のごとく叱責されていた。
叱られた経験に乏しい人間は、客観的に自分自身を省みる契機を持てないまま、他人からのネガティブな感情に対する耐性を身につけることなく成長していく。嫌なことがあればすぐに他人や環境のせいにし、重荷を放り出してしまう人間へと育っていくのである。業務中に軽く注意されただけでも心を折られ、どんな仕事も長続きしない私は、まさにその典型なのだろう。
「真面目系クズ」という言葉が流行ったが、そのような「外面はいいが、本質的なところで自身の非に向き合えない」というメンタリティも、「教員に従順な(ように見える)生徒の過ちが、甘く処理されてしまう」という傾向によって育まれている節がある。
教員による「ひいき」は、しばしば生徒の善悪の判断基準を歪ませ、反省できない人間を育てるのである。
教員がもっとも恐れるのは「優等生とのトラブル」
教員が優等生を叱らないのは、「優等生との円満な関係」が、つつがなく教員生活を送るための前提条件となるからである。
自分に従順な生徒がよい成績を収めることは、自分の指導の正しさを証明する材料となる。心情的にも、生徒が自分の教えを忠実に身に着けていく様は、教員にしばしば見られる「他者に影響を与えたい」という動機を満足させることだろう。
反対に、優等生との間のトラブルは、教員のキャリアにとって大きな爆弾となる。周囲から指導の正当性を疑われることに加えて、教育意識の高い親に対して火種を与えてしまうことが問題である。私の親もいわゆる「教育ママ」であったが、意識の高い親であればそれだけ教育機関をめぐる事情にも通じている可能性が高い。
「教育委員会への報告」といった対応を現実的に検討する親も珍しくないだろう。教員側に実際の落ち度があるかはともかく、学校長やその他管理職に迷惑を及ぼすリスクは、充実したキャリアを歩むうえで絶対に避けなくてはならない。
結果として優等生は、教員からまるで高価な陶器のように扱われる。教員のリスク回避傾向が、優等生へのひいきを生み、その人格形成に歪みを生じさせるわけである。
「勝手な指導はするな」と言われた教員時代
実際に私が教育現場で働いている際にも、教員のリスク回避傾向が目立つ場面がしばしばあった。
学生時代より小論文指導の経験があった私は、有志の生徒に放課後、推薦やAOに向けた指導を行っていた。受け持つクラスの最初の授業で、「見てほしい人は見るから放課後来てね」と呼びかける形である。
10人前後の生徒の小論文を添削するようになってしばらく経った頃、私はある日学年主任に呼び止められた。私と同年代で、チャレンジ精神に満ちた気鋭の教員であったが、いつになく険しい顔をしている。彼が小声で言うことには、私が小論文を指導している生徒の担任から、私に対してクレームがあったというのである。「担任の管理の及ばないところで指導をされると、万が一の時に困る」ということらしい。
トラブル回避至上主義がはびこる教育現場
私はしばらく、何を言われているのかわからなかった。それが顔に出ていたのか、学年主任は「もしその、生徒が落ちたりしたときに、親から何か言われたとして、担任が説明できなかったらまずいっていう……」と補足した。私はなんとなく納得したが、それにしても「仮定」の多いその言い回しに、学校に蔓延する“トラブル回避至上主義”のような空気を感じずにはいなかった。
私は5クラスほどを担当しており、実際に誰が私の行いに苦言を呈してきたのかはわからない。私はとりあえず、該当するクラスの担任全員に、「○○の小論文を指導させていただいております、報告が遅くなり申し訳ございません」と頭を下げてまわった。その時、「責任を負うのはこっちなので~」と言ってきた担任がいたので、クレームの出所ははっきりしたわけであるが。ちなみにそのクラスの生徒がAOで合格した際、その担任からは何も挨拶はなかった。責任を負うのは担任だから、手柄も当然担任のものである。実に明快な話である。
「リスク管理」が生徒の自主性を殺す
担任の管理意識の高さは親の安心感にもつながるがゆえに、学校経営においてウエイトの高い素養なのだろう。しかし担任に「誰から何を学ぶか」まで管理されながら育つことは、はたして生徒に好ましい影響を与えるだろうか。
リスク管理(親への説明のしやすさ)の面では、指導する人間を限定することが望ましく、小論文の指導も担任自身が行うのがベストだろう。とはいえ現実的に、教員は文章の専門家ではないし、なかには「三角、丸、花丸」をつけるだけで指導を終える者もいる。そもそも「志望理由書」と「小論文」との区別ができていない教員も多く、おのずとコメントも主観的・感覚的なものとなる。論理展開への言及がある添削答案の方が珍しいくらいである。要するに、「気に入られるために書く文」という観点しかないのだ。
リスク管理のために「指導する人間を担任の目の届く範囲に限定すること」は、生徒の選択肢を狭め、さらには「専門家以外による質の低い指導」を是認することにならないか。学校にはさまざまな分野の専門家がいるのであり、その知的資産をどう使うのかは生徒の自由である。
たとえば野球部の生徒が、「ウチの顧問は戦術についてはよく知っているけどトレーニングの知識はないから、別の先生に筋トレのことを聞いてみよう」と判断したとして何がいけないのだろう。本来知識とはそのように横断的なものであって、独自の関心にもとづいて繋がっていく「知識の体系」こそ、生きる力の土台となるものなのではないか。それともやはり、「トレーニングで怪我をした際の責任の所在」というやつを考慮しなければならないのだろうか。
高校生ともなれば、誰から何を学び、また何を学びえないかを取捨選択し、勝手に好きな分野の力を伸ばすべき……というのはきっと、“教育者”としては怠慢な考え方なのだろう。
社会に出れば、自分にとって有益な情報をもたらす人間には積極的に近づき、自身に意義をもたらさない人間の話は適当に受け流す、という姿勢は必須のもののように思えるのだけれど。
「記述問題はいちゃもんつきやすいから控えて」
クラス数が多く、一つの教科を複数の教員で担当する場合には、試験問題の作成は基本的に順番で担当することになる。作成した問題は相互にチェックすることになるが、こういう時に「指導方針の違い」というものが浮き彫りになる。
初めて作成の担当となり、私は穴埋めや選択式の問題のなかに、二つだけ記述式の問題を入れた。学力の低い学校の試験問題は、「教科書の太字部分を丸暗記」で満点が取れるようなものも多いが、それだけでは学習意欲の高い生徒が退屈だろうと考えてのことである。
しかし別の担当教員によるチェックの際、記述問題に対してダメ出しが入る。
「記述はなぁ……いちゃもんついたときに説明しにくいから。マルバツとかにしてよ、工夫して作ればマルバツでも理解度ちゃんと測れるんだし」
たった2問の記述問題にケチをつけられるとは思いもよらず、私はとっさにそれを受け入れてしまった。「マルバツの選択肢を用意せず記述に逃げるのは怠慢」と、自身の落ち度を指摘されたような思いに囚われていたのである。
「生きる力」を培う教育は可能なのか
しかし冷静に考えて、正誤問題と記述問題では必要とされる能力が異なるのは明らかだった。短い言葉であっても、何も用意されていないところに自らの言葉で説明を与える、というのは脳に特別な負荷を与えるものであり、訓練なしにできることではない。
社会においては、答えようのない問いに対して何かしらのエクスキューズをひねり出すことが常に求められる。「用意された選択肢から適切なものを選ぶ」なんて場面は、「スマホのプランをどれにするか」といった消費活動の極めて限定的なケースにおいてしか生じない。学習指導要領に示される「生きる力」がスマホプランを見極める力を意味しているのなら、もはや私は何も言わないけれど。
斜め上からの解答でも、ウケを狙った解答でもいいのである。記述問題を出して、そういう解答をしてきた生徒に対して返却時にコメントをつけてやれば、次回の問題でもその生徒は工夫を凝らした回答をしてくる。点数にはならないけれど、すぐに忘れる穴埋め問題を繰り返すよりよっぽど「生きる力」につながると思うのだが、それは私の勝手な解釈なのだろう。
事なかれ主義がマニュアル人間を作り出す
上に挙げた話はほんの一例にすぎない。教員一人ひとりの「事なかれ主義」が、組織全体に監視と管理の網を張り、クレームを発生させないよう無言の圧力をかけてくる。非常勤ですらシガラミを感じるのだから、実際に専任として勤めていれば、リスク回避のために雁字搦めになってしまうことは想像に難くない。「この程度で文句を言うな」という声が、方々から聞こえてきそうである。
ここまでさんざん批判を繰り返してきた私自身も、学校教育の「事なかれ主義」に少なからず染まっていた自覚がある。テスト範囲を終わらせるために意欲の高い生徒からの質問に十分答えられなかったり、授業中の居眠りやスマホ操作をスルーしたり、面倒事を避けようという動きを挙げればキリがない。そもそも上に挙げたような問題に対して、その場で反抗することができず、このような形で槍玉にあげていることがすべてを物語っている。
教員の責任回避の傾向は、生徒の自主性を損なう根本原因の一つである。トラブル回避を最優先事項としているのだから、当然生徒を見る観点は「トラブルの種を抱えているかどうか」である。面倒な親を持つ生徒は腫れもの扱い、反抗の素振りも見せない従順な生徒がもっとも望ましい。事なかれ主義が「いい子ちゃん」を生み、マニュアル人間を大量生産していくわけである。