「DASH村の父」 一生懸命なTOKIOに農業教えることを楽しんだ

 ときおり肩を震わせながら、TOKIOのリーダー・城島茂(43才)は、棺の中で安らかに眠る“DASH村の父”の顔を覗き込み、別れの言葉をかけながら大粒の涙を流していた。
 6月9日、『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)の人気コーナー『DASH村』で、“農業の達人”としてTOKIOの指導役を務め、6日朝に急性骨髄性白血病のため亡くなった三瓶明雄さん(享年84)の通夜が福島市内の斎場で、しめやかに執り行われた。
 200人ほどが集まった広い会場の祭壇には、山のようにかたどられた青々とした木々と、たくさんの白い花やひまわりに囲まれ、トレードマークの白い手ぬぐいを頭に巻き、青空をバックににっこりと笑顔を浮かべる三瓶さんの遺影が飾られていた。
 会場へと続く通路には、何十枚もの写真が並べられ、そのほとんどが、三瓶さんの人生ともいうべき、農作業に勤しんでいる姿だった。
 喪服姿でその会場に現れた城島は、14年に及ぶ三瓶さんとの交流を、ひとつひとつ思い出すように語りかけていたのだろう。
 三瓶さんの知人が、こう振り返る。
「『DASH村』に出演するようになった直後に、三瓶さんは奥さんを亡くしました。大事な人を失い、子供たちも独立していたため、ひとりになってしまった。三瓶さんは憔悴しきっていました。でも、『DASH村』にかかわっていたおかげで“大変な時期だったけど、村に新しい生きる目的を見つけられた”“一生懸命な彼らに教えるのが、すごく楽しい”なんて嬉しそうに話していました」
 70才を超えてから見つけた、新たな生きがいだった。
 そんな三瓶さんだが、仕事に対する厳しさも持ち合わせていた。口癖だった「まだまだ」という言葉。これは「満足したら、それ以上向上しない」という思いからで、どんなにいい仕事ができたと思っても「まだまだ」と言うようにしていたという。
 その思いは、TOKIOのメンバーにも伝わり、彼らは多忙のなか、車で往復8時間の道のりを10年以上通い続けた。そんな5人に対し、三瓶さんはこんなことを語っていた。
「最初はみんな小さな虫を怖がっていたほどだったけど、一生懸命勉強して、今ではとても頼もしい存在になったね。息子に教えている感じだよ」
“5人の息子たち”も三瓶さんを「明雄さん」と呼び、父親のように慕った。彼らはコンサートに三瓶さんを招待、三瓶さんも自宅の自分の部屋には、TOKIOのポスターを飾っていたという。

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