【コラム・断】自分さえ幸せならば

映画「バベル」を見た。菊地凛子がアカデミー助演女優賞にノミネートされたことで話題になった作品である。

 モロッコでアメリカ人観光客が狙撃され、東京で聾(ろう)の女子高生が無軌道な遊びに手を出し、アメリカとメキシコの国境で幼い兄妹を乗せた車が検問を突破する。たがいに無関係に見える三つの事件が意外な糸で結びつき、人間の運命の不可思議さを浮き彫りにする。
 菊地凛子が登場するのはむろん「東京編」で、性器をむきだしにすることも辞さず、聾の女性の孤独を表現する菊地の演技は鬼気迫るが、それ以上に胸に突き刺さったのは、スペイン人監督イニャリトゥの目に映る日本の風景のゆがみだった。

 例えば、新宿の公園で、菊地はじめ何人もの若い男女が昼間からウイスキーの小瓶を回し飲みし、ドラッグを流しこむ。周囲には多くの普通の人々、大人や子供や老人がいる。だが、彼らはアルコールとドラッグにふける若者たちがまったく目に入らない(かのようにふるまう)。イニャリトゥの異邦人の目は、現代日本人の、自分さえ安全で幸福ならばそれ以外の面倒からは徹底して目をそらすという姿勢を見逃していない。

 私は谷川俊太郎がホームレスの男を歌った絶唱「そのおとこ」を思い出した。

 「ひとびとは/まるで/そのおとこなど/このよにいないかのように/まっすぐまえをみつめ/いそぎあしで/とおりすぎてゆく/ひとびとが/ゆこうとしているところは/いったいどこなのか」

 二十五年も前に書かれた詩だが、現代の日本人の精神的風土を描きだして、古びるどころか、その予言性はますます強まっている。(学習院大学教授・中条省平)

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