【メディアと社会】手書き「石巻日日新聞」とジャーナリスト魂 渡辺武達

先週末、仙台の東北大学で研究会があったのを機に、東日本大震災の激甚被災地である南相馬、飯舘、福島市、そして陸前高田、気仙沼、石巻…と全560キロを回ってきた。日本人の一人として原発事故警戒区域線上に立ち、津波の爪跡を歩いておきたかった。さらに、宮城県石巻市、東松島市、牡鹿郡女川町をカバーする夕刊紙「石巻日日新聞」について、メディア研究者として、読者の声を聞いておきたかったからである。
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記事本文の続き ■世界が称賛した地域紙
 仙台を拠点にして国道6号を南下した。政府関係者や福島第1原発の作業員が防護服に身を包んで出入りする警戒線で警備員がマスクなしだったのにはびっくりした。計画的避難地域の飯舘村で人気のない民家にときたま灯りが見えたことや、気仙沼港での腐った魚の強烈な匂い、太平洋岸一体の津波と地震被害の惨状は一生忘れまいと心に誓った。
 石巻日日新聞では連日、一面の題字の下に、「亡くなった市民2728、死者(市内で収容された遺体)3278人、身元不明140人、行方不明の市民688人…」(10月28日付、通巻27673号)などと記し、他の2地域についても同様の報道をしてきた。現場を歩いた後ではとりわけ、その数字の意味が胸を打ち、思わず合掌せざるを得なかった。
 新聞は全4ページだが、最終ページはテレビ欄だから記事は実質3ページ、発行部数も1万4000(震災前)のごく小さな地域紙だ。しかし今や、日本の新聞関係者で同紙を知らない人はいない。ワシントン・ポストやロサンゼルスタイムズ(ともに米国)などでも激賞され、震災後1週間の発行紙がワシントンの新聞博物館に展示されることになった。
 ■読者への責任と「絆」
 3月11日号を刷り上げ、一部配達にかかったところで地震、続いて津波が襲ってきた。停電と輪転印刷機の水没で発行が不可能となったとき、近江弘一社長がろうそくを灯(とも)した会議で、「新聞人はどうしたら読者への責任が果たせるのか」と切り出し、触発された報道/制作部員が、高いところで水濡(ぬ)れを免れた新聞巻紙をはさみで切り取り、翌朝に原稿を書き、それを6部の手書き新聞の号外として発行、翌日の避難所に壁新聞として張り出し、読者に思いを伝えたのだ。
 10月29日午後に会った武内宏之常務取締役兼報道部長(54)によれば、戦時中の軍部による一県一紙の情報統制で犠牲になった同社の先輩記者たちはわら半紙に思いを書き、読者に真実を知らせていた。たとえ、輪転機が使えなくとも被災した読者との「絆」としての新聞を届けたのだ、と。
 筆者の取材中にも、この経緯を東京の某テレビ局が2時間ドラマにしたいと打ち合わせに来ていた。それは、市民の新聞理解に役立つだけではなく、ジャーナリスト魂の教材としても最高のものになるであろう。
 今回、何カ所かの被災住民から聞いたのは、電気がなく、テレビも見られず、新聞だけが頼りで、それを回し読み、新聞で自分たちの置かれた立場がやっとつかめた。電気が来た後でも、テレビの報道はおおざっぱすぎてどこかよそ事のようであったという声であった。
 ■忘れやすい社会的使命
 東北にはかつて日本のどこにもあった共同体が生きており、外国人たちからも信頼された。東北大学の場合でも、震災前にいた外国人学生・院生、研究者は1721人(2010年5月)であったが、震災2カ月後の今年5月には1504人と、世界中で原発事故が騒がれているわりには減少数がすくない(国際センター調べ)。日本政府への信頼はともかく、東北での暮らしの温かさが国籍を超えた日本理解となっている。
 日本新聞協会が主催し、京都で開催された新聞大会は今年で64回目であった。翌日の地元紙京都新聞は2ページを使い詳報した。その見出しが「読者の目線貫き 日本の未来切り開く」だった。しかし議題の一つは販売の適正化問題だ。熾烈(しれつ)な拡販競争と経費削減が記事の質的低下の原因の一つともなっている。フランスの高級紙で、発行部数30万あまりのルモンドの社長は「新聞は大きくなると社会的使命を忘れやすく自戒したい」と語ったと伝えられる。100万部を超える新聞が7つもある日本の新聞関係者はそれにどう答えたらよいのだろうか。
 (同志社大学社会学部教授 渡辺武達(わたなべ・たけさと)

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