【垣花正のハッピー日記】BEGINの歌声に感じる可能性

 ぼくのふるさと沖縄では、歌というものが、生活の中にしっかりと根ざしている。宴会で盛り上がれば皆が歌いだすし、うれしければ歌う、悲しくても泣きながら歌う。沖縄にはシャイで口下手な人が多いが、歌を通しての感情表現は豊かだ。
 先日、日本武道館でのBEGINのコンサートを見ていて、父や母はもちろん、お世話になった沖縄の人たちの顔が浮かんできた。BEGINのスタンスは、聴かせてやる、泣かせてやるではない。比嘉さんの柔らかな温かい声に現れているように、常に自然体。宴会の余興に徹しているようだ。
 比嘉さんはまるで、たまたまぼくは歌えるから歌っている、歌う立場を与えらているから歌っているだけ。この場にいる皆が楽しくなるんだったら、ぼくが歌わなくったっていいし、ぼくは聴くほうになったっていいんだよ、と言っている気がするのだ。
 BEGINの歌にもそんなスタンスが現れている。酒の席で手拍子をしながらみんなで盛り上がって歌うための歌。民謡や童謡のような普遍性。歌は皆のものなんだと言わんばかりだ。
 いつしかビジネスの香りばかりがする歌が増え、才能を誇示するための手段のひとつになり、生活と解離したメッセージの歌が増えてしまった。きっと、歌はもっと生活とともにあったし、言葉だけでは足りない気持ちを表現するために必要だった。そこから歌が生まれるということをBEGINは信じ、そんなスタンスをかたくなに守り続けようとしているように見える。
 太陽がのぼると畑に出て働く普通のうちなーんちゅと同じであろうとするBEGINにこそ、名曲を産み出す可能性を感じる。
 (ニッポン放送ラジオパーソナリティー 垣花正/SANKEI EXPRESS)

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