【東日本大震災】廃業ちらつく個人商店 大型店との復旧格差拡大

 《この笑顔をパワーに》
 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市で8月21日、「はまらいんや祭」が行われ、地元住民らが復興への願いを込めてみこしをかつぎ、市内の南町商店街などを練り歩いた。「はまらいんや」とは、地元の方言で、「いっしょに入りなさい、まざりなさい」という意味。津波の被害を受けて震災後、静まりかえっていた商店街には久しぶりに活気が戻り、威勢のよいかけ声が響き渡った。
 商店街にもいまだ津波の爪痕が色濃く残るが、この日、みこしの上にあがった気仙沼市出身の斉藤かなえさん(19)は「前よりも、もっと元気な気仙沼にしたい」と笑顔で話した。
 (大里直也、写真も/SANKEI EXPRESS)
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 《廃業ちらつく個人商店 大型店との復旧格差拡大》
 東日本大震災の被災地で復旧への足取りに格差が出始めている。ショッピングセンターといった大型店舗が次々に再開する一方、商店街にあった大半の個人商店は再開のめどが立っていない。仮設店舗の提供など国の支援はあるものの、地元住民が離散して肝心の顧客が見込めないのだ。震災前から続いていた大型店舗に押された個人商店の淘汰(とうた)は、震災で加速している。
 ■人通りも絶えた
 宮城県石巻市の沿岸部の商店街は垂れ下がったシャッターに穴が空き、津波の痕がくっきり残っている。
 この商店街では、大型店舗出店などの影響で、震災前からパン屋や果物店、うどん店、衣料品店が廃業。そこに津波が追い打ちをかけた。何とか営業していた薬局や理髪店、製茶店、金物店も波をかぶって閉まったままだ。製茶店の男性店主(62)は「大型店の進出でつぶれそうになり、津波で絶滅した」と話す。
 男性店主はコンピューターのプログラミングが本業。それでも「祖母の代から続いた店を畳むことはできない」との思いから細々と営業を続けてきた。「新しく建て直さないと店は開けない。気持ちがごちゃごちゃしていて、次のことは考えられない」。「閉店」の2文字を頭から振り払う日が続く。
 近くの食品雑貨店「アンベ商店」は6月から本格再開できた。しかし、客足は震災前の半分程度。商店街周辺の住宅地から住民がいなくなり、自転車でかき氷を食べに来る子供以外に人通りはほとんどない。「近いのが最大の取りえだった。住民が引っ越してしまったらそれもない」と店主の安倍秀一さん(56)。周辺に再び住宅街ができる保証はなく、「来年は廃業しているかも」と嘆息する。
 ■険しい復活の道
 震災前に比較的商店街が残っていた宮城県南三陸町でも、個人商店の復活の道は険しい。
 南三陸町の商工会では、所属する個人商店560店のうち8割以上の463店が被災した。そのうち、国の制度などを利用した仮設コンテナ商店街に名乗りを上げたのは約70店に過ぎない。
 山内義申(よしのぶ)さん(55)は、父親が始めた呉服店と自分で始めたスポーツ用品店、自宅、引っ越そうと高台に立てた新築の家の4軒全てを流された。呉服店は戦地から復員してきた父親の一郎さん(86)が自転車1台から始め、60年かけて店を広げた。それが「すっぽりなくなってしまった」と母親のマサ子さん(75)はため息をつく。
 コンテナ商店街の開店は早くとも11月以降になる見込み。山内さんは商店街に申し込むつもりだが、「震災後、自分にも商店街のない生活が染みついてしまった。商店街を復活させても、その流れは変わらない」という。それでも山内さんは前向きだ。「服は支援物資で十分に配られたから、2、3年は売れない。直す店でもやるかな」
 ■「採算は度外視」
 一方、大型店舗には復興の兆しが見えている。
 石巻市で被災したイオンスーパーセンター石巻東店は4月に再開。ホームセンター「ホーマック」石巻東店も、被災した店内に面積約半分の仮設店舗を作り、7月15日に営業再開した。
 ホーマックの佐藤敬一店長(36)は「大手で体力もあるので、採算は度外視して再開を優先した」と話す。数十キロ離れた牡鹿半島など遠方の顧客からの再開要望が強く、「商圏が広いので需要もある程度は見込める」という。
 「誰かが始めなければ、そのまま住民ごといなくなってしまう。続いてもらえれば」と佐藤店長は個人商店の再開にも期待をかける。ただ、周りの個人商店はつぶれたまま、片付ける人影もまばらだ。
 (荒船清太/SANKEI EXPRESS)

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