韓国政府が朝鮮戦争(1950-53年)時の「勝利の証(あか)し」を消し去ろうとして韓国内で論争が巻き起こっている。
舞台は、韓国軍を含む国連軍と中国義勇軍が激突した韓国北東部の「破虜湖」(パロホ)。中国に媚びるためなら歴史改変も厭わない文在寅政権に韓国国民は怒りの声をあげるのだが…。(岡田敏彦)
蛮族を打ち破る
破虜湖の戦いは朝鮮戦争が激戦となった1951年5月26日に起こった。破虜湖は華川(ファチョン)ダム建設によってできた人造湖で、元々の名前は「大鵬湖」だった。
韓国の歴史では、このダムをめぐって韓国第6師団と中国義勇軍が激戦を展開し、4日間の戦闘で約2万人余の中国部隊を壊滅させ、韓国軍が圧勝したと伝えられている。当時の李承晩(イ・スンマン)韓国大統領は4年後に同湖を訪れ、中国の女真族に対する侮称である「オランケ」(北方の野蛮人の意)を打ち破ったとの意味の「破虜」を湖の名として定めた。
実際のところ、米軍(国連軍)では特に激戦との評価はなく、当時発生した「幾多の戦闘のひとつ」という位置づけで、主力も韓国軍ではなく米第9軍団だった。
むしろ直前の5月、韓国北東部での「懸里の戦い」で韓国軍韓国第3軍団の劉載興(ユ・ジェフン)軍団長が部下を見捨てて連絡機で逃走。部下も雪崩をうって敵前逃亡した結果、第三軍団は米軍の命令により解隊されるなど、韓国軍の信用度が地に落ちた状況で迎えた戦闘だっただけに、同湖での戦闘は韓国軍がなんとか「軍事組織」の体面を保った程度の戦いだ。
それでも戦果に乏しい韓国では圧勝として政治宣伝されてきたのだが、戦闘から68年も経ったいま、問題となっているのは、この「破虜湖」という名前と、戦闘後の処置だ。
中国に配慮
韓国の左派紙「ハンギョレ」(電子版)などでは、戦死した中国兵の遺体をダム湖に投げ捨てたと指摘。夏季で遺体の腐敗から伝染病などの恐れがあったこと、埋葬に必要な人員がいなかったことなどが理由とされるが、結果としてダム湖は「赤く染まった」としている。同紙は左派紙らしく、遺体を適切に埋葬しなかったのはジュネーブ条約違反だとしている。
時は流れ、ダム湖周辺は風光明媚な観光地となり、中国からの観光客も訪れるように。そこで目にするのが、李承晩の揮毫した「破虜湖」の石碑と、いかに中国軍を撃滅したかを示す資料を集めた記念館だ。ここで破虜湖という侮辱的な名前の由来を知った中国人が反感を示すようになった。
そして今年4月、韓国の地元紙「江原道日報」が、冷戦の象徴である破虜湖の名称変更を政府が地元自治体に要請し、新名称を「大鵬湖」とする案があると報じた。
保守派の不満
この一報を機に、韓国では論争が巻き起こった。保守系の韓国紙、朝鮮日報(電子版)は名称変更に反発。「中国は、韓国政府や自治体に『中国の観光客が不快に感じている』として、名前を変えろと要求しているという」と報じ、「破虜湖改名を推進する韓国政府の無知と事大主義」と題したコラムも掲載。韓国軍兵士が勇敢に戦った歴史を隠蔽するとは何事か、という論旨だ。
韓国保守派の視点では、朝鮮戦争で中国義勇軍の参戦さえなければ米韓軍が勝利し、朝鮮半島は統一されていた。ネットユーザーらも「悲劇の分断国家」にしたのは中国なのに、その中国におべっかを使うように名を変えるのは、悪夢の李氏朝鮮時代の政治「事大」(強いものに従うこと)主義の復活にほかならないと批判が巻き起こった。
新名称の「大鵬湖」にも批判が集まった。韓国ではこの名は、ダムの建設当時に日本の企業などが命名したとの説がある。第二次大戦前の日本による朝鮮併合時代を全否定する多くの現代韓国人にとっては、改名は中国に媚びるうえ日本の「植民地支配」を認めることになる-といった批判が現地メディアやネット上で噴出しているのだ。
もはや過去の軍の功績云々よりも、現政権の対中、対日姿勢を問うような論調となっているのだが、こうした動きの底流にあるのは、文在寅政権の経済や外交面における失敗隠しと保守派の巻き返しだ。
功績を消し去る
朝鮮日報などによると、韓国政府は国立大韓民国歴史博物館の常設展示の改編を計画している。1960年代後半の「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる韓国経済躍進に関する内容を大幅に減らすというのだ。漢江の奇跡は、前大統領の朴槿恵(パク・クネ)氏の父である朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の下、開発独裁とも評される手法で行われた。左派に取っては、消し去りたい「政敵の功績」である。
さらに6月6日には文在寅氏が金元鳳(キム・ウォンボン)なる人物を「韓国軍のルーツ」と肯定的に評価する演説を行い、保守系の自由韓国党などの野党が一斉に批判した。
というのも、金元鳳氏は日本併合時代の独立運動で臨時政府の軍司令官などを努めた人物。ちなみに臨時政府は世界のどの国からも承認されず、名前だけの存在に等しいが、問題は戦後にある。
金元鳳氏は第二次大戦の数年後に北朝鮮にわたり、労働相など政権幹部として長年働いた北朝鮮側の要人。そして文氏が演説した6日は、朝鮮戦争での戦死者を追悼する「顕忠日」で、演説場所はソウルの国立顕忠院(軍人向けの国立墓地)。よりにもよって追悼演説で、韓国軍と死闘を繰り広げた北朝鮮の要人を「韓国軍のルーツ」と言うのだから、保守派の反発も無理はない。
いまや韓国では政治家だけでなく、労組や市民団体などさまざまなグループが右派、左派にわ分かれて対立しているのだが、その象徴的な事件が同じ日に起こった。
墓を移せ
文氏が演説したソウル顕忠院から南に約150キロ離れた太田顕忠院で6日、韓国の複数の左派系市民団体が「反民族行為者の墓を移せ」と要求し、墓の一部に動物の排泄物などの汚物をまいた。その主張は、日本の憲兵を務め、朝鮮戦争では虐殺を行った者が国の英雄として埋葬されているのはおかしい-というものだ。朝鮮日報(電子版)によると、併合時代に日本に協力した者を調査・特定する「親日反民族行為真相究明委員会」が「親日」と指摘した金錫範(キム・ソクポム)氏ら5人の墓に汚物がまき散らされたという。この金錫範氏も韓国左派の仇敵ともいえる人物だ。
第二次大戦中は満州国軍の幹部養成所「中央陸軍訓練処」を経て日本陸軍士官学校に留学し、間島特設隊(満州国の朝鮮人部隊)に所属。朝鮮の独立軍を討伐したとされる部隊だ。
同部隊出身者で、のちに「朝鮮戦争の英雄」となる白善●(=火へんに華)氏らの主張では「独立軍など見たこともない」「我々が討伐したのは共匪(中国共産党下のゲリラ)」だが、左派紙ハンギョレ(電子版)は、討伐されたのは抗日抵抗勢力で、その多くは朝鮮独立運動家と主張する。
金錫範は朝鮮戦争にも参戦し、韓国海兵隊の司令官などを歴任した人物だ。朝鮮戦争当時の韓国軍幹部は多くが満州軍や日本軍出身者で占められていた。
最低限の軍事訓練を受けた人材は彼らしかいなかったから当然なのだが、彼らは朝鮮戦争で活躍した軍人=旧日本軍=親日派=民族の裏切り者-という論法で左派の攻撃対象とされている。
文政権の一連の行動は歴史の見直しか、それとも「塗りつぶし」なのか。それを見つめる韓国国民の対立は根深い。