なぜ若者はキャリアに不安を持っているのか 「成果主義」ではなく「貢献主義」で捉え直す社会

若者と接する場面では、「なぜそんな行動をとるのか」「なぜそんな受け取り方をするのか」など理解しがたいことが多々起きる。

企業組織を研究する経営学者の舟津昌平氏は、新刊『Z世代化する社会』の中で、それは単に若者が悪いとかおかしいという問題ではなく、もっと違う原因――たとえば入社までを過ごす学校や大学の在り方、就活や会社をはじめビジネスの在り方、そして社会の在り方が影響した結果であると主張する。

本記事では、前回、前々回に続いて、著者の舟津昌平氏と組織開発コンサルタントの勅使川原真衣氏が、Z世代を通して見えてくる社会の構造について論じ合う。

なぜ若者はキャリアに不安を持っているのか

勅使川原:『Z世代化する社会』では、若い世代が自分のキャリアに不安を持っていて、早く成長しないといけない、転職も考えないといけないと悩んでいる。でも、そうした不安は企業をはじめとする社会が作り出しているものでもあるから、真に受けすぎる必要はなく、余裕を持てばいいんだと書かれていますよね。

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Z世代を通して社会構造を読み解く舟津昌平氏

私が研究する能力主義においても同じ問題意識を持っていて、人の「能力」は客観的な、科学的な基準で判断できて、それに基づいて人を選抜、評価できると考えられている。でも、「能力」は明確に定義できるものではなくて、人との関係の中で揺れ動くもの。偶然や持ちつ持たれつの関係の中で人が集まって仕事をすることが、実際には社会の大部分を支えていると思っています。スペシフィックに白黒つけて、賢い大人が考えたアルゴリズムで社会なんて到底回っていないんです。

ただ、こうした現実を若い人にもわかってほしいと思う一方で、自分が同じ立場にあったら、同じようにキャリアに不安を持つだろうなとも思うんです。この葛藤を乗り越える知恵を舟津先生からいただけたらと思うのですが、いいでしょうか。

舟津:おそらくマクロの話と個人の話があって、まずマクロの話でいうと、会社側がすべきことってあると思うんですよね。たとえばいまや神話といわれるかもしれませんが、終身雇用をする、つまり最後まで面倒見るという制度は象徴的です。私たちはずっと雇うつもりでいるからって言われたら、雇われている側はやっぱり余裕が出るじゃないですか。もし、余裕が出すぎて働かない社員がいるとしても、それは必要悪。そういう社員も許容して得られるものが余裕なんで。

逆に、肥大化した人件費をいかに減らすかということのみに企業が力を入れているとしたら、若い人は絶対に気づくと思うんですよ。そしたら会社への信頼はなくなりますよね。会社は余裕がないんだなって思っちゃって、それは企業に跳ね返ってくる。

勅使川原:たしかに、包容力と真逆ですもんね。そうした中で、社員に対してリスキリングを求めたり、自律的なキャリア形成を強調しているとしたら、「あなたをずっと見るつもりはないよ」というメッセージと捉えられても仕方ない。

舟津:まさに。これは日系企業ではなく、外資系企業の方のお話ですが、最近は新入社員研修でさっそくキャリア研修があるそうです。入社時点から他のところへ行くのもあなたのキャリアだと言われたら、「この会社にいちゃいけないの?」と疑問を持ってしまいますし、若手社員にとって余裕のなさにつながってしまいます。でもこれって、企業の余裕のなさの表れでもあるんですよね。

勅使川原:それはその通りだと思います。

利益を人に還元しない日本企業

舟津:財務的に見ると、日本企業の現金預金、利益剰余金、経常利益率の3つ全部、15年ぐらい右肩上がりなんですよ。儲かっているにもかかわらず、企業がリスクを取ることを恐れ、積極的な投資や社員への還元を行わない。企業が余裕を失い、ますます内向きになっている証拠だと思います。

バブル崩壊のトラウマが影響しているのかもしれませんが、今の日本の企業は財務的に余裕があるはずなのに、その力を発揮できていない。財務はよくなっても、経営がよくなったわけではない、という話になってしまいますよね。

勅使川原:大企業が内部留保を貯め込んで、それを積極的に活用していないとすれば、どこかでしわ寄せが出そうにも思いますが。

舟津:最近のニュースの一端から読み解くと、大企業が取引先や従業員に負荷をかけることで成り立っている利益構造という側面はあるかと思います。

勅使川原:権力勾配ありきなんですね。その力関係が前提にあるとしたら、利益をもたらす限りは面倒を見るという条件付きの承認にすぎないと。それは、余裕のない社会という話ともつながるような気がします。そうか、あくまで条件付きの愛なんですね。

舟津:そうですね。無償の愛はほとんど存在せず、つねに条件付きの関係が基本になっています。ただ、深刻なのは、それがビジネスだけにとどまらず、個人の関係にも広がっているところです。学生でたとえたら「自分のことを怒らないなら慕ってあげる」みたいな。そんな愛なんかいらんわと思うんですけど。

勅使川原:なるほどな。単純に博愛が疲れるという話でもなさそうですね。どうして他人を受け入れることが、コスト高に感じてしまう風潮が広がっているんだろうか。

舟津:いまパッと思ったのは、「そういう損なことをするやつはアホだ」みたいな言説が強まってきているのが影響しているのかなと。

勅使川原:損得を計算できないやつみたいな。

舟津:そうです、まさに。博愛は愚かだと。見返りのない愛を与えるなんて、リターンがない、無駄じゃないかということなんですよね。でも、博愛って基本的には理念であり価値観じゃないですか。そうしたいと思うからそうしている。

勅使川原:博愛自体に目的はないから、無駄だと考えるのは結果しか見えていないということ。

舟津:でも、そうした損得勘定に若者や学生は敏感になってきているとは思いますね。自分が損するのは嫌だから、もっと損得に気をつけないといけないみたいな。で、拙著でも述べたように、若者がそうなら、老若男女みんなそうなんです。

勅使川原:ふーん。それだと、すごい近視眼ですけどね。

舟津:間違いないですね。ものすごい近視眼。

勅使川原:でもこれって、経営学の枠組みというか、ゲーム理論的に説明できそうな気もします。

ギブしない人には、誰もギブしようとしない

舟津:ある程度は説明できると思います。ゲーム理論的な説明をするならば、そうした損得だけを考える生き方が非合理だと言える理由もあるはずです。そもそも、そういうゲームのルールで動いている人に、誰も愛を与えませんよね。

勅使川原:あっ、ほんとそうだ。

舟津:そうなんですよ。みんなが「何かを与えてくれないならやらない」と思っていたら、誰も動かない。最初に誰かがギブしないと始まらない。このことに、もっと気づくべきなんです。

勅使川原:ウーン!

舟津:とある先生は、学会のシンポジウムで共同研究について「うまく進めるコツのひとつは、まずは”Give, Give, Give”です」とおっしゃっていました。自分ができるものを全部与えないと共同研究なんか成立しないよ、というメッセージだと理解しています。そういうことを、義理堅いと言うのかなと。

勅使川原:なるほど、義理ってそういうことなんですね。筋をとおすというか。

舟津:そうなんです。退職されたある京大の先生は「花街」の研究をしていて、よく「芸者は呼ばれればどこでも行くんだ」とおっしゃっていたそうです。頼まれたら断らない。声がかかったら絶対に行く。助けを求められたらギブする。つまり京都の人たちは、損得勘定をしてからじゃないと受けないとしたら、みんなが膠着してしまうと直感的に理解しているんだと思います。だから、頼まれたらやっておけって。そのほうが長期的に見れば、物事がうまく回るという考えなんですね。

勅使川原:これって、若手社会人の方にとっても生存戦略になりそうですね。自分から職場にギブすることで、周囲から信頼や感謝を得られたり、後々自分にとって有利な状況を作り出せるかもしれない。

舟津:そうだと思います。これって「真逆」の人にも届く論理なんですよ。つまり、あなたが誰にもギブしたくないと思っていたら、当然誰からももらえなくなる。だからそのゲームをどこかで崩さないと、誰も何も与えない社会になっちゃいますよねって。

会社経営でも同じです。会社が社員にできるだけ与えないようにしようとすると、社員も当然与えなくなります。すると悪循環が生まれて、結果として選ばれなくなる。逆に、与える会社にはいい社員が集まりますよね。社員側も会社に与える人は評価されるだろうし、そうでない人は評価されなくなる。つまり、与える人ほど幸せになって、与えない人ほど不幸になる。不幸になる必要はないにせよ、与えることで活発化していく。

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「成果主義」ではなく「貢献主義」

勅使川原:いま、鳥肌が立ってますよ。私は個人の能力を客観的に評価することができると考える能力主義という社会配分原理を本の中で批判しましたが、他方でつねに、批判するなら代案を示そうと試行錯誤してきました。

たとえば近著では個人の「能力」というより、「機能」の持ち寄り・組み合わせが仕事なのだと著しましたが、いまお話を伺っていて、自分からどれだけギブできたかという見方から能力主義を再考する余地があるのかもしれない、と思っていて。仮にですが、「能力」というワーディングはそのままで、その中に他者性を埋め込むとどうなるんだろう? また違った代案の示し方があるのかもしれないですよね。

舟津:そうですね、学術の世界では「貢献」という言葉がよく使われます。貢献は「どう役に立つのか」と似ているようで、少しニュアンスが異なるんです。役に立つは、ある特定の問題に対して解決策を提示するような実践的な意味合いがありますが、貢献とは、新たな知見や理論を提供して、学術分野や研究コミュニティ全体の知識体系を広げるような意味合いなんですね。だから、論文を出すときに、「この論文にはこういう貢献があります」というギブの視点がなくては見返りもないよと。

勅使川原:あっ、それ面白い。たしかに、私の指導教官も貢献の話をよくしていました。論文はその人が賢いとかすごいとかを示すことではなくて、たとえ一端でも知識のプールにどんな石を投げ込めたか、プールの水を増やしたかが大事だと。

そう思うと、貢献という言葉には、そもそも全体性とか、統合性というものを前提としていますよね。

舟津:そうですね。研究コミュニティとか、会社とかがやっぱり想定されているんですよね。そういう意味では、貢献はすごく組織的な概念です。

勅使川原:成果主義ではなく、貢献主義だ。

舟津:本当にそうだと思います。もちろん、ギブにただ乗りされたり、搾取されていることに気づかないってのは当然ある。でもそれは、ある意味でマイナーな問題だと思うんです。ギブするということがすべてのエンジンであり、そこは譲ってはいけないところ。

勅使川原:ギブは自分の問題で、それをどう受け取るかは相手の問題になってくるんですね。

かつての日本企業は「貢献主義」だった

舟津:「貢献主義」という表現はあまり見受けないですね。ただうまくいっていた日本企業は、そういうふうに考えていた気もするんですね。

勅使川原:それ、私も企業を見てきて、ちょっと思います。

舟津:組織の中で「なぜあの人が評価されているのか」って疑問に思うとき、その理由の1つは貢献度かもしれません。よくしてくれたから、みたいなことが案外評価の大部分を占めていたのではないか。それって能力でもないし、成果でもないし、気に入った人をひいきしているわけでもない。組織への貢献があったんだと。

勅使川原:うわー、本当にそうかも。それこそ、「営業の人が金持ってくるから偉い」みたいなことが大企業の中でよく言われたりするんですけど、でもコールセンターで誰かが客の苦情を1時間延々と聞いてくれないと成り立たなかったりもするわけで。そういう貢献を利益をもたらす人=成果主義で評価すると、見過ごされてしまいますよね。

舟津:かつ、結局は主観に頼ることになるんですが、貢献度ってわかる人にはわかるものだと思うんですよ。それこそ組織の中にいる人、特に上司やマネジャーにはいかなる貢献があったかはある程度わかるもの。それに、貢献って基本的には中長期に見るもので、短期で測ることはナンセンスです。

勅使川原:能力の判断は難しくても、いてくれてよかったっていうのは思いますもんね。エンゲージメントサーベイならぬコントリビューションサーベイ。

舟津:こういうのって、仕事をやっていたらめっちゃわかることじゃないですか。たとえば、誰かが「じゃあ、やります」と手を挙げなければ、たたき台を出してくれなければ、すべてが止まってしまうことがある。そういう状況で積極的に動けること、それこそが貢献であり、ときに能力や成果以上に大切なものなんですよ。

勅使川原:アカデミアでいうと、ピアレビューでの質問がそうですね。質問ないことが一番の不義理というか、愛のなさというか。企業でも、質問をしたり、意見を出したりするだけでも貢献なのに、スムーズに進行することばかりが評価されがちですよね。

舟津:「成果主義」や「能力主義」はとても妥当な制度にみえて、意外と作用しづらいし、何より根付かない。むしろ貢献主義という考え方のほうが現実に即しているし、多くの人がピンと来るのではないでしょうか。

貢献主義は会社のために理にかなっているし、社員にとっても見返りがある限り、よくできたシステムです。フリーライドを防げるし、ほどよく全体主義をとれる。

教育や学校運営も「貢献主義」で捉え直す

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勅使川原:本当にそうですね。教育や学校運営でも同じように説明できるかもしれません。手を挙げて発表してくれたとしたら、たとえ間違ったとしても、それは貢献にほかならない。

舟津:たとえば、「この90分の授業の目的はみんなが楽しく学べること。そのときに、それぞれができる貢献って何だと思う?」と聞いてみる。こういうのって、すごく集団性が育ちやすい気がしますね。

勅使川原:それ、すごくいいですね。成果主義の世界だとリーダー役の人ばかりが評価されてしまうけど、貢献主義であれば、おとなしいけどきちんと話を聞いてくれる人も大切な存在になってくる。

舟津:全員がリーダーだったら回るわけがないんで。

勅使川原:ほんとに。1つの車にハンドルが3つも4つもあったら困ります。だけど、就活ではみんなリーダーですもんね。

舟津:たしかに。やっぱり、「特別に利益をもたらす人間」を演じないといけない、という怖さを感じているからだと思います。リーダーとか、自立性とか。それはいまの就活システムの問題だとして、貢献主義という視点から捉え直せば、必ずしもリーダーというわかりやすい立場だけが価値のあるものではない、と理解できるとは思いますし、個々の努力を引き出しやすい気はします。

勅使川原 真衣:組織開発コンサルタント

舟津 昌平:経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師

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