まもなく丸2年のコロナ禍 感染者数報道がもたらした“数値過敏症”という病 評論家・與那覇 潤

里帰りや旅行を満喫した正月気分も束の間、巷では再び新型コロナウイルスの感染者が激増している。連日報道される「数値」に一喜一憂する生活もまもなく2年――。この間、我々日本人は「何か」を蝕まれてはいまいか。評論家の與那覇潤氏(42)がその実相に迫る。

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 日本では2020年の3月に本格化した新型コロナウイルス禍から、まもなく2年となります。不安をあおるメディアの報道や、政権による場当たり的な自粛の要請が世相を萎縮させ、私たちの社会全体が、すっかり「うつ病的」になってしまいました。

 女性や子どもの自殺者の異例なまでの増加は、死に至る疾患としての「文字どおり」のうつ病が増加していることをうかがわせますが、それだけではありません。どうにか危機をしのいでいるように見える「健常者」の一人ひとりにすら、いまやうつ病に近いともいえる傾向が忍び寄っていると、私は考えています。

重度のうつ病と同じ症状

 コロナウイルスの「感染者数」への異様な注目の高まりこそが、まさにその症状です。2年近くの間ずっと、多くのメディアがトップニュースに「今日の感染者数」を掲げ、もっと自粛が必要だ、減ってきても油断するなとあおり続けました。

 その結果として私たちは、いわば「数値過敏症」のような状態に置かれています。今日は外出しようか、やめようかを、ニュースで目にしたその日の感染者数で決めてしまうといった事態は、いまや日常茶飯事であり珍しくもありません。

 新型コロナ以外の感染症――たとえばインフルエンザの際には、私たちはそうしたやり方では意思決定をしなかったはずです。週末の飲み会につきあうかどうかは、ワイドショーの出演者が掲げるグラフではなく、なにより「自分の身体」に聞く。体調ばっちりなら出席し、少し不安を感じたら辞退させてもらう。そう対応するのが普通でした。

 あまり知られていませんが、こうした身体感覚が狂ってしまう、「自分自身の感覚を信じられなくなる」というのは、実はうつ病が最重度になったときの症状でもあります。

主観的な身体感覚が狂う

 私自身、2014〜17年にかけて重度のうつ症状と、そこからのリハビリを体験しました。詳しくは『知性は死なない』(文春文庫)に書いたことですが、うつの本質は、言語や数値のような客観的な指標と、自身の主観的な身体感覚との「噛みあわせ」が壊れることにあると考えています。

 うつ病体験者以外にも広く知られている映画に、堺雅人さんと宮崎あおいさんが主演した「ツレがうつになりまして。」(2011年。監督・佐々部清、原作・細川貂々)がありますね。この作品で一番「うつが描けているな」と感じるのは、堺さんが病気の前は得意だったはずの料理に失敗してしまうシーンなんです。

 うつからの回復の途中で、自信をつけようと久々に調理に挑戦してみた。ところが全然うまくいかず、調味料を入れ過ぎてやたらとしょっぱい味になり、「やっぱり僕はダメだ」と落ち込んでしまう。ここに実は、うつ病の体験者のみに限らず、あらゆる人に大事なメッセージが隠れています。

 私たちは普段、レシピに塩・こしょうを「適量」振ると書いてあるとき、「適量とは厳密には何グラムですか」とは聞きませんよね。ぱっと振りかけた時の手の感触や、素材の上に粉末が広がった際の印象で「なんとなく、こんなものだろう」と納得する。そんな無数の「なんとなく」が積み重なることで、私たちの日常は成り立っています。

「コロナを人にうつすかもしれない」と自粛を強要

 しかしうつ病になると、この「なんとなく」が壊れてしまうわけです。だから堺さんの役のように、いつまでも振りかけて味の濃すぎる料理にしてしまったり、逆にそれが怖くて調理を始められなかったりする。うつの時は「適量」といった曖昧な表記ではなく、「小さじ半分」のように厳密に分量が記載されているレシピの方が、ありがたく感じられるんですね。

 こうした目で見たとき、新型コロナ禍で起きたことは、日本社会全体の「うつ病化」に他なりません。日本人の誰もが、自分自身の感覚に基づいて「まぁ、こんなものだろう」という判断を下せない。政府やメディアが「感染者数が〇人になったらステージいくつ」と指標を決めて、それに従う形でないと、「パーティーを開くか」「旅行に行くか」も決められない。

 どうしてそうなったかといえば、私たちが「恐怖や不安」に基づくコミュニケーションを選んでしまったからです。特にひどかったのが、「コロナを人にうつすかもしれないじゃないか」といった脅し方で、自粛を強要したことですね。

 SNSが定着したことの副作用で、元来はごく小さな不祥事に過ぎないのに全国から野次馬を巻き込んで大炎上に発展する例が、コロナ禍の前から増えていました。その状態で「自分が罹らないだけではダメだ。人に感染させるのもいけないんだ」などという基準を設けたら、怖くて誰も自由に行動できなくなる。結果として、「いえいえ、政府の数値目標に則っております」という言い訳に、みんなが依存するようになりました。

罪業妄想が全国民に広がった

 実はうつ病の症状には、「罪業妄想」というものもあります。なんで自分はこんな病気になったんだと考えるうちに、「きっとひどい罪を犯して、この病気はそれに対する罰なんだ」と患者さん自身が思い込んでしまう。あきらかに本人は悪くないことまで、自分の責任では、法を犯したのでは、ハラスメントをしたのでは……と自分を追い込み、疑心暗鬼になってゆく。

 普通の病気だったら、「熱があったのに無理して出席したことで、他の人にうつしてしまったかもしれない。申し訳ない」くらいでしょう。ところがコロナでは、「無症状でもうつすかもしれない」と医療関係者があおり、「クラスターが発生した」と報じられるのを恐れる諸施設がばたばたと自粛を選んでいきました。

 本来ならうつの最中の人が苦しむような罪業妄想を、全国民に広げてしまったともいえます。その帰結として、「このくらいなら問題なかろう」といった自らの感覚を多くの人が見失い、独り歩きした数値目標に従わない限りどこまでも叩かれる、一種の無限責任社会が生まれてしまいました。

社会全体のうつ病化

 ワクチンの普及や治療薬の開発の進展を考えると、コロナの流行自体の終息は遠くないと私は見ています。しかし、社会全体のうつ病化に伴う「数値依存症」は、そう簡単には終わりません。後者こそが、ポストコロナにも引き継がれる最大の課題となってゆくでしょう。

 たとえば私たちはいま、「支給額(の数値)が同じである」という形でしか、社会的な平等や公正さを捉えられなくなっている。これって、まずいことだと思いませんか?

 分水嶺となったのは、2020年春のコロナ第1波の際に当時の安倍晋三政権が打ち出した、「国民全員への一律10万円給付」です。社会パニックの中でこれが実現したため、そこから後はどんな支援プランを政治家が提案しても、「俺はもらえないから平等じゃない。全員一律に配れ」という非難にさらされる状態が続いています。

数値を追うあまり買い物ができなくなる現象

 平成の末期に待機児童(保育園不足)の問題がクローズアップされた際には、「まぁ、子育て世帯は大変だよね」といった相場観が社会的に共有されていました。ところがそれはコロナで完全に吹き飛び、いまや子ども1人につき追加の10万円をと言っても、「資産家の家庭には不要」、「世帯主以外が稼いでいるかもしれない」、「子どもを作れないくらい貧しい人はどうなる」といった怨嗟が渦巻いています。政府がお金をつぎ込めばつぎ込むほど、不公平感が惹起されて国民どうしがギスギスしていく、出口のない状態です。

 お金というのは本質的に、数値の形で示されざるを得ないわけですが、その副作用の存在に、私たちはもっと敏感であるべきでした。

 たとえばインターネットでショッピングする際、価値を判断する指標として「数値」(価格)に目を奪われすぎると、かえって買い物ができなくなる経験は、多くの人が体験済みではないでしょうか。もっと安いサイトが他にあるかも、待っていればタイムセールのクーポンが届くかも……と「1円でもお得になるタイミング」を気にしているうちに、狙っていた品物自体が売り切れてしまう。

 数値化を通じて現実世界の感じ方を微細にしすぎると、「この辺が適正な水準だろう」といった判断ができず、細かな違いを偏執狂的に追い求めがちです。そんな現象が、個人ではなく「社会」という規模で起きたらどうなるでしょうか。

ゼロコロナ幻想

 お察しのとおり、その帰結が「ゼロコロナ幻想」です。感染者数が「せめて3ケタにならないと安心できない」と言っている人は、3ケタになったら「いや2ケタにならないと」とゴールポストを動かし、最後はゼロを要求し始める。

 主観的な安心を自らの身体でつかみ取ることができず、むしろ「客観的」だと称する数値に自身の感覚をハッキングされてしまう。そうした「広義のコロナうつ」が、昨年末のオミクロン株パニックで息を吹き返したのは危険な兆候です。

 この「数値化の副作用」をさらに掘り下げると、資本主義の問題に行きつきます。近年、マルクスの『資本論』の何度目かのブームが来ていますが、同書が冒頭部(第1巻第1篇)で論じているのは「搾取」や「環境破壊」の問題ではなく、実は貨幣論なんですね。

 お金(貨幣)が便利なのは、あらゆるものの価値を数値という「同一の尺度」にならしてくれるからです。物々交換で欲しいものを手に入れるのは、相手が欲している「物」を自分が持っていないといけないので大変ですが、お金さえ持っていれば何にでも換えられる。それはまさにイノベーションであり、私たちの暮らしを豊かにしてきました。

数値化の困難を「脅し」で突破しようとする試み

 しかしこれが行き過ぎると、人は逆にお金を使えなくなるんです。たとえば予算1万円でいい服を見つけたとしても、そこで買わずに我慢すれば、同じ1万円分で「趣味のグッズが買えるかも」「コンサートに行けるかも」……と、他の選択肢がチラついちゃう。

 お金がすべてのものに換えられる以上、定義からして「他の選択肢」は無限大なんですね。結果として、なにを手に入れても「これがベストチョイスだ。今日はいい買い物をした」という満足感が得られなくなり、ますます「せめて1円でも安く買おう」といった数値上の競争に巻き込まれてゆくことになります。

 平成の最後に第2次安倍政権がリフレ政策(アベノミクス)を掲げ、「これからはインフレになるんだ」と唱える形で国民に消費させようとしました。あれはこうした数値化に伴う困難を、「脅し」で突破しようとする試みだったといえます。

 インフレとは端的に、持っているお金の価値が目減りしてゆく現象ですから。だから「一刻も早く使わないと、損しますよ」という雰囲気を作って、迷ってないで何でもいいから買えという話だったわけです。

 リフレ政策は想定ほどには機能しませんでしたが、困ったことに令和の現在、脱炭素運動の影響からエネルギー価格が急騰し、欧米を中心に本当にインフレが起きています。結果として、ますます「数値で不安にさせて、言うことを聞かせる」風潮が日本でも広まりかねないのは心配です。

深まった孤独

 コロナ以前からずっと続いてきた、不安で人を動かす社会の末路が、目下の「一億総コロナうつ病」状態でした。私たちがそこから立ち直るには、逆に「安心で人を動かす社会」の実現が欠かせません。

 第一歩はまず、「どうしても数字が気になり、いつしか依存してしまう」生き方自体が、強い不安にさらされたがゆえの「症状」であると気づくことです。

 たとえば本当に私生活が充実しているとき、人は「俺には友達が何人いるか」なんて逐一数えません。ついつい数えてしまうのは、「自分は嫌われているのでは」「魅力のない人間なんじゃないか」といった不安にとりつかれ、孤独感の虜になっているときですね。

 逆にいうとSNSでフォロワーや「いいね」の数を気にかけ、「アイツよりは多くないと」と競う人が増えたのは、それだけ孤独が深まったからですよ。人間関係を「数値」にして可視化したことで、かえって症状が悪化しているわけです。

 数字を気にかけなくても、「まぁなんとかやっていけてるじゃないの」という状態が、はじめて安心感を作る。数値化とは本来、その状態に達するための補助具――たとえば「俺にだって〇人はフォロワーがいるじゃないか」といったものでなくてはいけない。

 私はうつで入院した時、作業療法室で料理が得意な人とよくケーキを焼きました。あまりに美味しいので驚いたら、「お菓子類はレシピの分量が決まっているから、きっちり守れば必ず上手に作れますよ」と教わった。そうした状態を経て、次第にいろんな調理ができるようになっていきました。

 数値にこだわる営みは、あくまでも「不安から安心へ」の過渡期にのみ行われる対症療法、リハビリ療法として捉えるべきなんですね。ゼロコロナ幻想とともに数値化信仰の破局を見たいま、私たちは発想を転換してゆく時だと思います。

與那覇 潤(よなはじゅん)
評論家。1979年生まれ。学者時代の専門は日本近代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験をつづった『知性は死なない』が話題となる。精神科医・斎藤環氏との共著『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―』で小林秀雄賞受賞。

「週刊新潮」2022年1月20日号 掲載

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