今回のコロナ危機では、社会のあちこちで従来型価値観からの転換が起こっている。最たるものは会社と個人の関係だろう。日本の「カイシャ」というのは、表面的には合理性に基づいて作られた組織に見えるが、その内実は前近代的なムラ社会だった。
●企業と社員の「共依存」消滅へ
これまでは、たとえ理不尽なことがあっても、会社が自分を守ってくれるという安心感があったが、そうした共依存関係はもはや消滅したといってよいだろう。これからは自分が会社に対して何を提供し、いくらの対価を受け取るのかドライに考えていく必要がある。
戦後の日本において政府が行う経済対策というのは、ほぼ100%企業支援を意味していた。日本では建前上、終身雇用ということになっているので、会社が労働者を一生涯支えてくれる。労働者は何も考えず、会社の指示に従ってさえいれば、それなりの生活を送ることができたわけだが、その代わり、会社からの指示は絶対だった。
終身雇用を維持するためには莫大な人件費がかかるので、当然、昇給は抑制される。日本人の賃金が安い理由の1つは、終身雇用を維持してきたことである。個人の生活を無視した転勤などが日常的に行われるのも、構成員が半永久的に入れ替わらない組織では、強制的な異動を行わないと不正が発生しやすいからである。
このような雇用制度である以上、個人の生活を守るのは企業なので、政府による経済支援のほとんどは企業に集中していた。実際、右肩上がりで経済が成長していた昭和の時代までは、企業を守っていれば、自動的に国民の生活を守ることができた。
●企業が生活保障しない「非正規」
だが、こうした日本型雇用というのは、基本的に成長が続かない限り維持できない。平成に入って日本経済の低迷が深刻化したことで、日本型雇用の歪(ゆが)みが露呈する結果となった。増え続ける人件費を捻出できず、賃金が圧倒的に安い新しい労働者カテゴリーを作ることで企業は人件費の増大に対処するようになったのである。具体的には「非正規社員」である。
非正規社員の数は、2000年代から顕著に上昇しており、今では民間企業はもちろんのこと、公務員の世界にまで拡大している。現在、多くの役所で窓口対応をしているのは正規の公務員ではなく、役所に雇われたり、派遣会社から派遣されている民間の非正規労働者である。
非正規社員はあくまで雇用の調整弁なので、企業を通じた生活保障の対象には入らない。そうなってくると、企業を支援していれば、国民の生活を守れるという従来の常識が通用しなくなる。
●「コロナで一律給付」は戦後日本の転換点
今回のコロナ危機では、政府は当初、国民に対する直接的な現金給付について検討しなかった。それは政府関係者の中に企業を救済するという感覚はあっても、国民を直接支援するという認識がなかったからである。唯一の例外的な施策であった、2009年に景気対策で施行された定額給付金の評判が悪かったという過去のトラウマもあった。
直接給付を頑(かたく)なに拒む政府のスタンスに国民が激怒。あまりの批判の大きさに、政府は一転して現金の一律給付を決定したが、筆者は、一連の出来事が戦後日本社会における一大転換点であると見ている。
以前の日本社会であれば、こうした現金給付については、国民の側からもバラマキとの批判が出た可能性が高い。ところが今回は、直接支援を求める声が圧倒的に多かった。コロナ危機による経済的影響が極めて大きいということもあるだろうが、大多数の会社員はまだ直接的に雇用が脅かされている状況ではない。
それにもかかわらず、こうした声が強く出てきたのは、もはや多くの労働者が「自分が勤務する会社は、自分の生活を守ってくれない」と考え始めたからに他ならない。
●コロナ受け希望退職加速も
コロナ危機のためほとんど話題にも上っていないが、今年の春闘では、経団連が日本型雇用の見直しを議題として取り上げる方針を示していた。つまり企業側は、すでに終身雇用や年功序列の賃金体系を放棄する意向を示しているのだ。
コロナ危機の影響が長期化するのはほぼ確実であり、とりあえず当面の感染拡大が一段落したタイミングで、多くの企業が希望退職など雇用調整に乗り出す可能性が高い。日本型雇用は実質的に終焉していたが、コロナ危機がその動きを加速させるだろう。
●テレワークでばれた「ムダな職場・社員」
コロナ危機は、労働者の基本的な価値観も変えつつある。テレワークの普及によって、これまで見えていなかった職場のムダが可視化されてしまったからである。
先ほど、日本のカイシャは労働者にとってムラ社会だったと述べたが、社会学的には「共同体社会」と言い換えることができる。共同体は構成員にとって所与の存在であり、自分で主体的に参加するどうかを選べるものではない。集団の中では、お互いを監視したり、貶(おとし)めるという行為が行われるが、一方で共同体は、自分のアイデンティティーを確認したり、満足感を得る場でもあった。
共同体としての職場では、他人への誹謗中傷やイジメもある意味では業務の一部となり、純粋なタスクとこうした暴力行為、そして幸福感が渾然(こんぜん)一体となっていた。だがテレワークに移行すると、ほぼ全てがタスク単位となり、労働者の評価基準は、指定された時間に指定されたアウトプットを出せたのかどうかに集約されてくる。
当然のことながら、会社の業務に貢献している人とそうでない人がハッキリと区別され、上司の立場の人間も、適切にマネジメントできていたのか完全に可視化される。コロナ後の社会では、自分のアウトプットを正しく評価してくれない企業で労働者が働き続ける意味はないし、会社から見れば、共同体的な振る舞いしかできない社員はもはや不要である。
近代的な企業制度は、労働者と企業の役割分担を明確にし、労働に対する正当な対価を規定することで成り立っている。コロナウイルスという感染症は、前近代的な日本の社会制度にも影響を及ぼそうとしている。
加谷珪一(かや けいいち/経済評論家)