ダメと言われても「夜の街」に繰り出す人は何を考えているのか

「コロナ疲れ」「コロナうつ」という言葉がある。なにが原因なのか。精神科医でブロガーの熊代亨氏は「どんなに健康的で清潔で道徳的な生活を実現しても、人間は、コミュニケーションする動物としての性質をそうそうやめることはできない。また、やめるべきでもない」という——。

「不慣れな生活」を自分に強いて過ごしている

皆さんは2020年のお盆をどのように過ごしましたか。 新型コロナウイルス特集など、最新情報をモバイルで詳しくはこちら PR Microsoft ニュース

私の場合、どうにか墓参りは済ませましたが実家でゆっくり過ごすわけにはいきませんでした。家族に「県外の人間と接触すると介護サービスが使えなくなってしまう」等々の事情があったからです。帰省ラッシュの渋滞は無く、新幹線もガラガラだったのを思い出すにつけても、「2020年のお盆は、お盆と呼べるようなものではなかった」と感じているのは私だけではないでしょう。

新型コロナウイルス感染症とともに始まった2020年もやっと3分の2が終わろうとしていますが、感染終息の気配はいまだ見えません。

指導的な立場にある人々は、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐべく活動自粛を呼びかけ、ソーシャルディスタンスを保った「新しい生活様式」を勧めています。これが、感染拡大を防ぐために必要な呼びかけであることを多くの人が理解しています。

しかしもう、活動自粛やソーシャルディスタンスや「新しい生活様式」には皆うんざりしているのではないでしょうか。少なくとも私はうんざりしています。うんざりしているけれども感染拡大を防がなければならないから、世間体が気になるから、不慣れな生活を自分自身に強いているわけです。外出自粛やソーシャルディスタンスが不徹底に終わっている国がいくつも存在するのは、経済的な理由もさることながら、この「新しい生活様式」が、そもそも私たち人間にとって無理を強いるものだからではないでしょうか。

日本はすでに「新しい生活様式」に近づいていた

平成から令和にかけて、日本の公共交通機関やオフィスがどんどん静かになっていったのを覚えていますか。大声の会話はマナー違反となり、人々の身なりはより清潔になっていきました。平成の後半にはインターネットやスマートフォンが普及し、コミュニケーションのかなりの部分がオンライン経由に置き換えられました。昭和以前や諸外国と比べればの話ですが、日本人の生活習慣は、もともと「新しい生活様式」にある程度まで近づいていた、と言うこともできます。

だからといって、日本人の生活習慣のすべてが「新しい生活様式」に当てはまっていたわけではありません。オンライン経由のコミュニケーションが定着した後も、カラオケボックスやライブ会場、人が密になってコミュニケーションするイベントなどは盛況でした。職場や公共空間ではマナーによって禁じられているからこそ、皆で集まって構わない場所では皆で集まり、エモーションを共有したいというニーズが存在するのは理解できることです。

いや、仕事だって大同小異ではないでしょうか。今年はじめてZoomやスカイプを利用して、「本当に大事な会合は、やっぱり直に会って話さなければ心許ない」という印象を受けた人も多かったはず。

不自然で不十分な「ディスプレイ越し」のコミュニケーション

人間は、太古の昔から群れをつくって生活し、群れの内外でコミュニケーションを繰り返してきました。コミュニケーションの成否は群れのなかでの地位や生存、子孫を育てる環境の良し悪しに直結しましたから、傾向としては、コミュニケーションを好む人間が子孫を残しやすく、コミュニケーションを嫌う人間は子孫を残しにくかったことでしょう。

こうした進化心理学的な見立ては、現代人にもある程度まで当てはまります。社会的成功をおさめるにも、社会的地位を獲得するにも、パートナーを見つけて子孫を育てるにも、コミュニケーションは避けて通れません。私たちの心が、コミュニケーションがうまくいったと感じると充実感を得て、うまくいかなかったり禁じられたりすると滅入ってくるようにできているのは、コミュニケーションをとおして協力しあいながらサバイブしてきた先祖の心を引き継ぎ、コミュニケーションをしたがるよう動機づけられているからに他なりません。

そして従来の人間が行ってきたコミュニケーションの大半は、顔がみえる距離で直接話すこと、それも、しばしばスキンシップやボディランゲージを交えつつ話すことでした。最近ではディスプレイ越しのコミュニケーションがすっかり当たり前になっていますが、これは、人間にとってまったく新しいコミュニケーションです。そして本来、多くの人にとって不自然で不十分なコミュニケーションでもあります。

動物としての人間には「新しい生活様式」は難しい

今、感染対策を推し進める立場の人々は、「新しい生活様式」の名のもと、これまでのコミュニケーションを自粛するよう、そしてコミュニケーションに利用されてきた場所に人々が集まりすぎないよう提言しています。感染者を減らすために必要な提言ではありますが、ディスプレイ越しのコミュニケーションで満足できる人はけして多くはありません。なぜなら、私たちが先祖代々営んできたコミュニケーションとは、もっと距離が近くて、しばしば接触を伴っていて、もっと身体的なものだったからです。子どもや青少年がコミュニケーション能力を身に付けていくという観点からみても、従来のコミュニケーションを体験する機会は必要でしょう。

私たち人間が、本来、もっと近い距離で、もっと接触してコミュニケーションする動物だったことを思い出すと、「新しい生活様式」とはなかなか過酷な要請です。控えめに言っても、スキンシップやボディランゲージを交えてコミュニケーションする、動物としての人間の性質を疎外していると言えます。そうしたなか、一部の人々がカラオケボックスで密になってしまったり、夜の街に繰り出してしまったりしているのは、禁じられたコミュニケーションを取り戻さずにいられなくなった表れなのかもしれません。もちろん実際にそうしてしまう人々は氷山の一角に過ぎず、水面下には、お盆に帰省できなかったことを残念に思っている人やコミュニケーションを制限されていることにストレスを感じている人が大勢いらっしゃるでしょう。

「昭和時代の方が良かった」とは言えない

ここまでお読みになって、動物としての人間を疎外するコミュニケーションは良くない、動物性を取り戻せ、と思った人もいるかもしれません。もちろん私も、ある程度はそう思っていますし、個人的には、新型コロナウイルスの感染がおさまってからも「新しい生活様式」を続けることには抵抗感を持っています。

ただ、動物としての人間の性質が疎外されるのは、今に始まったことではなく、それによってストレスや生きづらさだけがもたらされたわけでもありません。公正を期するために、そのことについても触れておきたいと思います。

さきほど私は、平成から令和にかけて、日本の公共交通機関やオフィスがどんどん静かになっていったと書きましたが、実際、昭和時代の日本社会はもっと騒々しくて雑然としたものでした。人々はインターネットにも頼っておらず、もっとあちこちに集まって、もっと身体的にコミュニケーションをしていました。

そう言えば聞こえがいいですが、そのかわり体罰のたぐいが横行し、男性が女性に暴力を加える・喧嘩の強い者が弱い者を屈服させることも多かったのが昭和以前のコミュニケーションでした。

近代以前の生活習慣はとても“野蛮”だった

近代以前にまで遡れば、そこは昭和時代よりも野蛮でバイオレンスな世界です。腕力や暴力がコミュニケーションの一部としてカジュアルに用いられ、ちょっとした喧嘩が命のやりとりに発展することもありました。近代以前の人々のコミュニケーションは動物としての人間により忠実だったとは言えますが、だからといってストレスや生きづらさが無かったとは到底言えません。

清潔さや快適さという点でも、近代以前の人々の暮らしはひどいものでした。手で食べ物を掴む、ひとつのグラスで酒を回し飲みする、人前でも平気で用便をする、唾や痰をどこにでも吐き散らす……といった生活習慣が当たり前でしたから、飛沫感染などのリスクなどは現代と比較にもなりません。ヨーロッパでは、数百年をかけてテーブルマナーをはじめとする礼儀作法が浸透していき、こうした“野蛮な”生活習慣が少しずつ改善していきました。こうした変化は、それまでの動物的なコミュニケーションから離れていくものではありましたが、コミュニケーションを円滑にするという意味でも、安全や衛生を守るという点でも望ましいものでした。

動物としての人間から、礼儀作法を守った、よりバイオレンスではない人間へ。

そして野蛮で不健康な社会から、健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会へ。

人間は不自由と引き換えに「快適・清潔・安全」を手に入れてきた

今回の「新しい生活様式」に限らず、人類の歴史は、動物としての人間のコミュニケーションを修正し、より文明的でより安全に、より快適で清潔に変えていく歴史でした。パスツールが病原体を発見してからは、そこに衛生や健康を守る側面も加わっていきます。

新型コロナウイルス感染症が広がる以前から、日本社会は世界有数の清潔さを誇り、多くの人が秩序を守って行儀良く行動し、治安もハイレベルでした。高温多湿で人口密度も高い首都圏の人々が、おおむね清潔で安全な暮らしを実現できている背景には、円滑なコミュニケーションを可能にし、安全や衛生を守るのに適した生活習慣や礼儀作法が日本人に浸透しているから、という一面もあります。昭和から令和にかけてずっと、私たちは動物としての人間のコミュニケーションから少しずつ離れていくのと引き換えに、快適さや清潔さや安全性を手に入れてきたのです。

社会の変化はいつも、ある面では人間を疎外し不自由を課すものであると同時に、円滑なコミュニケーションや安全、清潔や健康といったものを提供するものでもありました。ですから社会が変化し、コミュニケーションが動物としての人間のありようから遠ざかっていくことを一方的に批判するのはフェアではありません。

メンタルヘルスの問題に向き合うのはこれから

ただ、今回の「新しい生活様式」のように、唐突かつ急激にコミュニケーションの様式が変化すれば、ついていけなくなる人が出てきてしまうのは無理もないことです。現代人にとって貴重きわまりない機会になってしまった動物的なコミュニケーションの機会が失われてしまったことで、ストレスを解消する術を失ってしまった人、大事な相手との意思疎通がうまくいかなくなってしまった人もいらっしゃることでしょう。

昨今は「コロナ疲れ」「コロナうつ」といった言葉を耳にします。リモートワークが始まってから昼間にアルコールを飲むようになってしまった人、自律的な生活リズムを保てなくなってしまう人のメンタルヘルスの問題も懸念されます。大災害の際にメンタルヘルスの問題があらわになるのは、だいたい数カ月のタイムラグを経てからが多いのを思うにつけても、「新しい生活様式」に疲れてしまった人やついていけない人の諸問題に私たちが向き合うようになるのは、おそらくこれからでしょう。

どんなに健康的で清潔で道徳的な生活を実現しても、人間は、コミュニケーションする動物としての性質をそうそうやめることはできません。やめるべきでもないでしょう。今、私たちが感じている窮屈さやストレスは、人間にとって必要不可欠なコミュニケーションとはどういうものなのかを教えてくれていると思います。感染症が一段落したら、ですが、私たちはそれを取り戻しにかかるべきではないでしょうか。

———- 熊代 亨(くましろ・とおる) 精神科医 1975年生まれ。信州大学医学部卒業。精神科医。専攻は思春期/青年期の精神医学、特に適応障害領域。ブログ『シロクマの屑籠』にて現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信し続けている。著書に『ロスジェネ心理学』『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(ともに花伝社)、『「若作りうつ」社会』(講談社現代新書)、『認められたい』(ヴィレッジブックス)、『「若者」をやめて、「大人」を始める』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(ともにイースト・プレス)がある。

タイトルとURLをコピーしました