ドーハ今昔物語 因縁深い日・中・韓

【from Editor】
 ドーハで行われていたアジア杯の期間中、日本サッカー協会の川淵三郎キャプテンと会った。「彼ほど日本をリスペクトしてくれる監督をぼくは知らない。選手一人一人と実によく話している。何をそんなに話すことがあるのか聞いてみたいくらい」と、ザッケローニ監督を絶賛していた。
 第3戦のサウジアラビア戦を負傷欠場した本田圭は、試合中ザッケローニに出場を訴えたのだという。「考えられないよね。よほど監督と選手の間に壁がないのだろう」と川淵さんは話した。
 本田の直訴は退けたザッケローニだが、決勝の豪州戦では後半、空中戦に強い岩政をDFに入れ、DFの今野を中盤に上げようとして選手らに反対された。「今野を左DFに、長友を前線の左に」の選手案を受け入れた結果、左サイドを疾走した長友から李忠成への延長決勝ゴールは生まれた。
 1993年秋、同じドーハで米国W杯アジア予選を戦った日本は最終イラク戦でロスタイムに同点弾を奪われ、悲願のW杯切符を失った。「ドーハの悲劇」と呼ばれるこの試合の後半、中盤でボールが拾えなくなったため、ピッチ上のラモスがベンチのオフト監督に運動量のある北沢の投入を訴えた。オフトはついに首を縦に振らず、悲劇の同点ゴールの2時間後、選手団長の川淵さんがようやく会見に応じ、「舞台に上がって突然、奈落に落ちた気分」と話した。
 18年前のドーハでは、もう一つの悲劇があった。最終戦を残して日本に敗れ、自力でのW杯切符を失った韓国の通信社は「日韓併合以来の屈辱」と打電した。当時、広島でプレーしていた韓国代表の盧廷潤(ノ・ジョンユン)は日本代表にプルコギとキムチを差し入れ、国賊扱いの激しい批判にさらされた。
 アジア杯準決勝の日韓戦では、PKを決めた奇誠庸(キ・ソンヨン)がサルを物まね、韓国のネット社会は「日本に失礼」などと反発した。テレビ中継では、試合前の通路で握手を交わす、遠藤と韓国代表主将、朴智星(パク・チソン)の姿が映し出された。2人は京都時代の同僚でもある。
 PK戦にもつれ込んだ死闘を制し、日本の選手が作った歓喜の輪に、遠藤の姿はなかった。これが最後となる代表100試合目を勝利で飾れず、うなだれる朴智星を抱きしめていたのだという。
 蛇足。ザッケローニがいかに日本を知ろうと努力しているか。僚紙夕刊フジによれば、協会幹部と忘年会を行った際、彼がつけた注文は「掘りごたつのある店」だったそうだ。(編集委員 別府育郎)

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