(岡村 進:経営コンサルタント、人財アジア代表取締役)
「リクナビ」を運営するリクルートキャリアが、AI技術によって算出した「内定辞退率」のデータを販売していたという。しかも就職活動中の学生らに無断で行っていたというから、情けない。
日系企業に勤務していたころ、人事部員やリクルーターとして、採用活動に従事していたから、予定数を採用するプレッシャーはよくわかるつもりだ。特にエントリーシートのコピペが常識になると、学生側が大量の企業に申し込みするようになったから、納得のいく学生を予定通りの数に着地させることはもはや不可能なのではないかと思えるほどだ。
だから数年前に某企業が、エントリーシートを手書きに限るとしたときには、本質からずれてゆく就活戦線の流れに逆らって、質を求めようとする覚悟と勇気に拍手喝采したものだ。しかし今回はそれとは逆だ。欲しいと思った人財を、説得して獲得する努力と自信すら失った会社に、未来はあるのか。
就活で自分の個性を潰すのはもったいない
私は20~50代のビジネスパーソンが侃々諤々の議論をしながら協学する場を作る傍ら、時間の合間を縫って大学に教えに行くことを楽しみとしている。嬉しいことに知り合いからお子さんの就職相談を受け面談することも少なからずある。こうして若者と向き合う機会を意図的に増やしているのは、得られる学びが大きいからだ。
世の中の批判とは異なり、いまの学生は個性豊かで生き生きしている人財が多いと私には感じられる。ところが就活が迫ってくると苦悩の表情に変わっていくのが残念だ。過去の自分を捨ててビジネス仕様に生まれ変わらねばならないと思う人が未だ少なくないのだ。
お恥ずかしながらかつて私も、「就活は大人への脱皮の道でしょう!」と考えていた。勢いある若者に、「もう少し目線を上げてみたら?」などとよく助言した。親心と言えば聞こえは良いが、実は“個性抹殺作業”に専心していたわけだ。
珍獣を集めた動物園のようなグローバルビジネスの現場で真の多様性を体感してからは、180度発想が切り替わった。生意気な若者には、「折角世界へ通用する攻めの資質を持っているのだから就活で自分をつぶすなよ! もったいないから!!」と心からエールを送っている。完全に宗旨替えした。いまはもう、意思あるところに道開けると信じるだけだ。
誰も幸せにできないリクナビ問題の真相
グローバル時代になった。就職は墓場ではなく夢の実現の第一歩たるべきだ。
学生は、就活で落とされる度に自己否定されている気がしてメンタルにくるという。私は「自分の親の姿を見てごらん。普通の人でしょ。それが会社で採用の可否を決めたりするんだよ」と励ます。要は就職先との縁は多くの場合、相性の問題なのだ。自分の“地”を出して、それに合った会社がふさわしい就職先なのだ。
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いま世間を賑わしているリクナビ問題の本質とは何か?
人を選ぶという大事な仕事に、「AI(人工知能)」をかませることに私は合点がいかない。 私の回りにはAIスペシャリストが複数いる。彼らの助言に従い、「AIは人間が面倒だと思うことは簡単にできる。しかしAIは人間が難しいと思うことは同じように難しい」と考えるようにしている。
それでは内定辞退率予測は「面倒なこと」なのか? それとも「難しいこと」なのだろうか?
私は後者でなければならないと考えている。欲しい人財は口説くことで辞退率を下げるのが、採用担当者の仕事の醍醐味ではないか。
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リクナビ問題が示す働き方改革のヒント
そこには働き方改革2.0のヒントが隠されている。
次世代人財育成の鍵は「就活」にあるのだ。会社的視点でいえば、「採用」にあるともいえる。
ビジネス界においても、多様性の理解がすすみ、昔に比べれば社員の個性を尊重するようになった。
「最近の若者は・・・」と表だって批判する経営陣も減った。ただ、口にこそ出さねど「若手に覇気がない」と不満を抱えている管理職は多いはずだ。
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先日、あまりに厳しく「いまの若手は生気がない、昔はもっと挑戦意欲があった」とまくしたてる経営者がいたので、ついつい私も素が出て、おそるおそる「それはあなたの鏡では・・・」と言ってしまった。どうやら出禁になったようだ(笑)。
外部の私ですら意見するのをためらうのだから、社員だったらこの経営者にはお追従を言いたくなるだろうなぁと思った。
もちろん経営者には、社員には見えない葛藤があるものだ。そこへのリスペクトもある。ただ、「我々50~60代は、若い頃からそんなに立派だったか?」と疑問を呈したいのだ。
未熟な若者×未完の上司
80年代の採用活動を思い出していただきたい。
極端な人手不足で、自分を含めていうが、学生時代遊び呆けたアホでもどこかに拾ってもらえた。それではなぜ成長できたのか?
それは常にたくさん仕事があって、新入社員の時期から失敗を積み重ねながら鍛えられたからだ。
「おい、ちょっとお客様と飲んでくるから戻ってくるまでに資料作っておけよ」と係長に言われ、「はい!」と素直に答えてオフィスで待つ。夜10時過ぎにやっと戻ってきた上司は、部下の資料に赤ペンを入れまくって帰っていく。こちらは「なにくそ!」と思って一睡もせずに直したものだ。翌朝上司に、「ましになったな」と言ってもらえるだけでも凄く嬉しかった。
働き方改革が叫ばれてから許されなくなったこんな非効率なやり取りを、なぜかつての日本社会は受け入れていたのだろうか?
私の考える理由は2つ。
①上司がリスペクトできたから
②業務が面白くリターンもあったから
少し細かく振り返ってみる。
①の上司がリスペクトできたのはなぜだろう。
いまから思えば高度成長期は、係長にも勢いとそこはかとない迫力があった。課長は威厳を持ち、部長は雲の上の人だった。頼りない若手も「猫の手」としてこきつかわれた。アホでもOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)で経験値を蓄えられた。
上司の助言も実戦的だから、たくさん学びがあった。余談だが、部長と飲みにいけば必ずおごってくれた。オーラがあるから、説教もありがたく聞く気になった。
これが失われたこの30年の間に、どう変化したか?
若手から見れば、係長は気やすい先輩、課長はいつも苦しそうな顔をしている修行僧、部長は先を儚んだ世捨て人といったところか。上司と飲みにいっても、愚痴を聞かされたあげくに割り勘。日本経済の停滞下、ワクワクする仕事が減ってきている。だから上司の経験値も低いので話を聞いてもイマイチ迫力がない。そんな上司を見て、若手が昇進するのを嫌がる気持ちがわかる。
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気づけばみんな意欲を失っていた
では、かつては②業務が面白くリターンがあったのはなぜだろう。
仕事柄アジアの国々へ講演や研修に行くことがある。先日はミャンマーにいって百数十名の日系企業に勤めるナショナルスタッフに研修を行った。「5時間の長い研修に耐えられるのか?」と思ったら、皆真剣で、質疑が30分伸びた後に会場都合でお開きとなった。
「もっと成長したい!」「わからないことを知りたい!」という意思が明確に存在していた。
質問は極めて実戦的だった。仕事ができるようになれば偉くなり、稼ぎも増える。ミャンマーの若者はそんなシンプルな仕組みに希望を持ち、夢を持っているのだ。
そういえば自分も入社早々、貸付の審査担当となった。当時は若手にすらどんどん企業経営者と会わせて、貸付の可否を判断させる風土があった。常に背伸びをしていた。仕事上の成功も失敗もあったが、毎年給与明細を見ると確実に10%ずつ額面が上がっていた。自分は頑張っていると思える雰囲気があった。
いまの日本はどうか? コンプライアンス、働き方改革等色々な角度からケチがついて若手に仕事が下りていかない。上には高い職位の人間が渋滞し、昇進のチャンスは大幅に減った。処遇も国が声高に叫んでもほとんど上がらない。手ごたえを感じにくい環境なのだ。
管理職はみな「忙しい、忙しい・・・」と言う。
下に任せてしまうと、勤務時間管理にひっかかるのでやらないという。実は管理職も、自身の存在意義に不安を感じ、自らの手を動かすことで安心を得ようとしているのではないか?
これが停滞日本の実態なのだ。
流動的に仕組みを変えていく外資では考えられないことだ。
外資流は、常に「下ろせる仕事は部下にすべてやらせよ」、「上は上らしい変革を起こせ!」である。
ビジネス人生の入口で躓いた学生は会社不信となり、会社は巧言で釣り上げた学生の早期離脱ややる気のなさに悩まされる。誰も得しない。
一事が万事、リクナビ問題に日本停滞の真相を見たのは、私だけではないはずだ。就活は夢の実現の第一歩でなければならない。今一度、学生時代の自分を思い出してほしい。まだ希望を持った個性豊かな若者に夢を持たせてやりたいではないか。そのためのは採る側も自らを信じ、生き生きしていなければならない。就活は人間の本音と本音のぶつかりあいであるべきだ。もし変えるべきところがあるとすれば、一括大量採用制度そのものであり、それを考えるのは人間であってAIではない。